コラム

満員電車に疲れたらお寺に行こう。仏教が「心と体の健康」のカギとなる

2017年にBAMPで取材した、料理を作る人と食べる人をつなぐ交流コミュニティサービス『キッチハイク』。共同代表の藤崎祥見さんは「お寺の息子からエンジニア」という異色の経歴を歩んだ人だった。

藤崎さんはこの事業に関わっている理由を「インターネットを使い、食を通じて人が出会う仕組みを作る。それは良き時代のお寺の役割を別のかたちで復活させるプロジェクト」と語った。

「良き時代のお寺の役割」という言葉が気になった。藤崎さんはその意味するところを「もともとお寺はローカルコミュニティの寄り合いどころだった。近所の人が時間つぶしに話に来て、一緒にお茶を飲む、ご飯を食べる。そういう場所だった」と説明してくれた。

いまの時代だってそういう場所があったら、きっといいだろうな、と思った。むしろ昔以上に求められているかもしれない。でも、観光くらいでしか訪れることのないぼくの抱くお寺のイメージと、藤崎さんのいう「良き時代のお寺」とはかけ離れていた。

藤崎さんは文字通り“出家”して、別のかたちでお寺の役割をよみがえらせようとしているが、一方で、本来のお寺はこの時代にどうあるべきなのだろうか。この時から、お寺はぼくの中で「なんとなく気になる存在」になった。

恵比寿駅前にオープンした「お坊さんのいる」書店

2019年4月、恵比寿駅前徒歩4分の好立地に一軒の書店がオープンした。『書坊』という名のこの店がユニークなのは「お坊さん」が店頭に立つことだ。


『書坊』のオープンにあたって、GoodMorningでのクラウドファンディングが資金集めの助力となった

「心と体の健康」をテーマに、店内には哲学・芸術・自然科学・伝統食・運動・小説・絵本など幅広い分野の良書が並ぶ。選書は宗派を超えて集まった僧侶が専門スタッフとともに行った。その人の症状にあった本を“処方”してくれるサービスもあるという。

運営する一般社団法人・寺子屋ブッダは、なにかを教えたい人と学びたい人をつなぎ、お寺を地域の学びの場にするプロジェクト「まちのお寺の学校」など、これまでにもお寺を舞台としたさまざまな活動を行ってきた。今回話を聞いたのは、その発起人であり代表理事の松村和順さんだ。

松村さんは『書坊』を「寺子屋ブッダのラボ(実験場)であり、各地のお寺のアンテナショップ」と位置づける。「実験場」というからには、その先にはさらに大きな景色を見据えているはずだ。聞くと、全国に7万軒あるというお寺の役割を再定義する、壮大なプロジェクトが進行中という。

そう、彼もまた現代の「良きお寺」とはなにかを考え、かたちにしようと奮闘を続ける一人だったのだ。そんな松村さんに、まずは寺子屋ブッダの活動が始まった経緯を聞くところから、現代の「良きお寺」をめぐる対話は始まった。

仏教とは、理論に実践をともなった「心の科学」

なぜ寺子屋ブッダの活動を始めることに?

ぼくはもともと映像の制作会社に勤めていました。2005年に独立して自分の会社を作った際、前の会社の仕事を一つだけ引き継いだんです。それが、仏教のとある宗派のプロモーション映像を作る仕事で。ぼくと仏教との関わりは、ここから始まりました。

ナレーション原稿を書くにあたり、お坊さんからいただいた課題図書を5冊読んで、初めて仏教について勉強をしたんですが、そこには自分がイメージしていたのとはまったく逆のことが書かれていました。それまでのぼくは仏教のことを「なにかいいことありますように」とありがたいものに向かって祈るくらいのことだと思っていたんです。でも、本来の仏教はそうじゃなかった。いわば「心の科学」のようなものだということがわかったんです。

自分の外に向けて祈るというより、むしろ自分自身と向き合うためのものだった。

いまではいろいろな宗派のお坊さんとお付き合いがあるんですが、そうした宗派による教えの違いを一旦保留してぼくなりの理解を言葉にするなら、仏教のテーマは「思い通りにならなさ」ではないか、と。

思い通りにならなさ?

「一切皆苦」という言葉をご存知かと思いますが、この「苦」というのが「思い通りにならなさ」のことです。だから「一切皆苦」は「すべてのものは思い通りにならない」という意味になる。

人は基本的に、身の回りに起こるさまざまなことに対して、自分の思い通りにしたいという欲求を持っています。そして、思い通りにならないからイラッとする。たとえば、道を歩いている時に前の人が急に止まっただけでも、少しイラッとしますよね? そういうイライラが積もり積もると、大きな苦しみにつながっていく。

人間は生き物だから、生来自分を守ろうとする機能が備わっている。それが脅かされるから「苦」が生じるんです。ということは、「苦」の問題を解決するには、自分を守ることとどう向き合うかを考えなければならない。

それが「心の科学」としての仏教である、と。では、どう向き合えばいいんでしょうか?

結論から言えば、自分の思い通りにしたい気持ちを少し弱めて、他者の幸せと自分の幸せとを重ね合わせれば良い、と仏教は言っているのではないかと思います。自分のやりたいことがそのまま誰かの幸せになっていれば、ありのままであってもいい人生になるわけだから。そうなるように自分をチューニングしていく。そういうことが説かれているんです。

ぼくが仏教をおもしろいと思ったのは、そのための具体的な実践方法までが示されているところで。哲学の多くは「世の中にはこういう課題があり、原因はこうだ」とは示してくれても、その先は教えてくれない。対して、仏教は行動である、と。理論に加えて実践まであるところがおもしろいなって。

社会のあり方は変わった。じゃあお寺は?

たしかにおもしろいし、現代人にとってもすごく大切なことのように思えますね。

ところが、現代の日本は残念ながら、仏教が身近にあるとは言えない状況です。核家族化が進み、人事異動のたびに住む場所が変わるのが当たり前になると、「先祖代々のお墓を守る」というお寺の機能もどんどん価値を発揮できなくなります。

社会のほうはどんどん変わっていっている。であれば、お寺のほうだって「現代における自分たちの社会的役割はなんなのか」とあらためて考える必要があるのではないか、「みんなで集まって、どうあるべきなのかを一緒に考えようよ」というのが、ぼくら寺子屋ブッダの言いたいことなんです。

時代に合った形に「お寺の役割」をアップデートしよう、と。

寺子屋ブッダを立ち上げることになったのには、もう一つ直接的なきっかけがあります。2010年、ぼくが独立して作った「百人組」という会社に、南房総市の妙福寺というお寺からホームページ制作の仕事依頼がありました。

依頼してきた住職の早島英観さんは、所属する宗派で過疎地域における寺院の実態調査を担当した方でした。その調査では「どんなに過疎が進んでいても、なんらかのかたちで地域に貢献している寺院であれば、廃れずにサステイナブルな状態を保てている」ことがわかっていました。早島さんはその結果に基づいて「自分のお寺も地域の縁側的な存在になりたい」と考えており、そのためにホームページが必要、という話でした。

けれどもそういう目的なのであれば、ただホームページを作っただけではダメだろう、と。一歩踏み出して新しく仕掛けるところまでやらなければということで、そこも含めて一緒にやることになったんです。

実際に妙福寺に行ってみると、空気が良くて、鳥の声や波の音も聞こえる素敵なお寺でした。でも、ものすごい過疎地域だから若い人は当然来ないし、目的もなく日常的にお寺を訪れる人もいない。


南房総市にある「妙福寺」

「なんとかして若い人たちに来てもらうことはできないだろうか」というのが早島さんからのリクエストでした。そこでいろいろと頭を悩ませた挙句、たどり着いたのが、お寺を舞台にしたヨガリトリートのツアーを開催することだったんです。

日本ではまだリトリートという言葉も浸透していない時代でしたが、都内にあるヨガスタジオを通じて募集したところ、結果としてたくさんの方が集まってくれました。

大成功に終わったわけですね。

そう。でも、本当におもしろかったのはその先です。参加者には若い女性が多かったんですが、感想を聞くと「ヨガも良かったけれど、それ以上に入門編の仏教講座がおもしろかった」と言う。その講座というのが幽霊についての話で。

幽霊って、「うらめしや~」のあの幽霊?

そうです。最初はぼくも「なぜ幽霊なの?」と思いました。

幽霊って両手を胸の前にちょんとぶら下げて、長い髪が後ろに伸びた姿で描かれるじゃないですか。早島さんによれば、手をかけているのは「未来」、後ろ髪引かれているのは「過去」なんだそうです。そして「地に足がついていない」。つまりこれは、未来や過去のことばかり気にして、いまを生きることができていない人間の姿を表しているんですよ。

なるほど!

そして、私たちのこうした問題を解決し、地に足をつけさせてくれるのが仏教の教えだ、と早島さんは説明しました。それを若い女性が「おもしろい」と言う。これは可能性があるな、と思いました。

仏教とひとくちに言ってもたくさんの宗派があり、それぞれに教えが細かく違って、難しい話になりがちです。でも、そういうものを一回取っ払ってシンプルに仏教の教えを伝えれば、おもしろいと思ったり必要としていたりする人は、案外いっぱいいることがわかった。だったらお寺を舞台にそういう機会を作っていこうということで、寺子屋ブッダの活動へとつながっていきました。

現代最大の「思い通りにならなさ」は心と体の不健康

そこから「学び」をフックにお寺に人を集める「まちのお寺の学校」の活動が始まっていくわけですね。

ぼくらがやりたかったのは当初から、仏教の教えをシンプルに伝えることで「自分の幸せと他人の幸せを重ねることのできる人を増やす」こと。でも、ただ「自分の幸せと他人の幸せを重ねることのできる人を増やす」と言っていても人は集まらないじゃないですか。そこで、伝統文化の先生やヨガの先生とお寺をマッチングして、お寺を大人も子供も参加できる「学びの場」とするコンセプトを考えた。それが「まちのお寺の学校」です。

伝統文化の先生と話していると、仏教の教えと驚くほど同じことを言っていると気づくんですよ。たとえば書道の先生は、よく「一筆一筆、心をしっかり置くように書け」と言うじゃないですか。ここで言われているのは、先ほどの幽霊の話と同じです。未来でも過去でもない、「いま、ここ」に意識を置くことの大切さを説いている。

だから、ぼくらは単に習い事の場としてお寺を考えていたわけじゃない。けれども、肝心のお寺のほうがなかなかそれを理解してくれませんでした。「寺子屋ブッダ? ああ、公民館の代わりにお寺を使って余暇活動をやってる団体でしょ?」みたいな見られ方をしてしまったんです。

ああ、すごく表面的な理解しか得られなかったんですね。

それはぼくらの見せ方の至らなさだったのかもしれません。そこで、「仏教の教えを伝えることで、自分の幸せと他人の幸せを重ねることのできる人を増やす」という目的はそのままに、もう一度ゼロからコンセプトを考え直しました。

そうして考えついたのが、いま水面下で進めている「ヘルシーテンプル構想」。要は、全国に7万軒、コンビニの1.5倍あるとされるお寺という拠点を使って、地域に健康を届けていこうということです。

「心と体の健康」をテーマとする『書坊』の話につながりましたね。

あらためて「いま社会の中で一番、思い通りにならなさを生んでいるのはなにか?」と考えてみたんですが、それはやはり健康ではないか、と。

いまの日本では、平均寿命と健康寿命の差が男性で9.13年、女性で12.68年あるとされます。これはつまり、平均して10年間も要介護、要支援の暮らしをしなければならないということです。寝たきりで10年も過ごす自分を想像してみてください。ぼくは「とてもじゃないが耐えられない」と思った。しかも、この問題は自分がそうというだけではなく、親に対しても介護・介助しないといけないわけで。個人としても、家庭としても厳しい現実です。

さらに言うなら、これは社会にとっても苦しい。日本ではいま、介護給付金が10兆円、医療費が40兆円まで膨らんでいます。これだけで合わせて50兆円。不健康は国家財政を破綻させるほどの大問題なわけです。

だから予防の考え方が重要になってくる。

その通りです。唐突ですけど、「閻魔帳」ってあるじゃないですか。生前の行状がすべて書いてあって、それに基づいて極楽に行くか地獄に堕ちるかを閻魔さまが決めるという、アレです。

閻魔帳は実在するんですよ。ぼくらにとっての閻魔帳は、ぼくら自身の体です。日々の飲みすぎ、食べすぎ、寝不足といった不摂生は、着実に脳や血管や内臓に影響を及ぼしています。その結果として、10年の寝たきり生活という地獄に堕ちるんです。これは逆に言えば、地獄に堕ちないためには、日々の生活習慣を変える以外にないということです。

わかります。でも、それと「お寺の役割」とどういう関係が?

お寺にはそのためのノウハウがめちゃめちゃ詰まっているんですよ! 座禅に作務、あるいは食法といって、お米の一粒一粒を、太陽や空気、大地の恵み、農家さんや配送した人などのさまざまな恵みによっていただけることに感謝し、丁寧に食事をすることをよしとする。一挙手一投足を丁寧に暮らす。体に染み込ませる。そうやってちゃんとした自分を作っていくための理論と実践が、仏教、そしてお寺という空間にはあるんです。

ああ、本当だ。

仏教には2500年の歴史がありますから、その効果は実証済みです。だったらこれを使わない手はないぞ、と。こうしたお寺にもともとある教えに現代的な要素を加えて作った「心と体の健康のためのプログラム」を、お坊さんが“インストラクター”のようになって地域の人たちに向けて提供する。これが「ヘルシーテンプル構想」です。

2020年4月のスタートに向けて、現在はさまざまな研究者や医師の先生の協力を得て、プログラムの開発を進めているところ。『書坊』はそのためのラボでもあります。もちろん、日本にあるすべてのお寺がそうである必要はないですが、現代のお寺には、こうしたかたちで果たすことのできる社会的役割もあるのではないか、とぼくらは考えています。

「心と体の健康拠点」としてのお寺が、個人を救い、家庭を救い、やがて日本社会を救うかもしれない。

心の健康ということで言えば、お寺はなによりもまず「安心できる空間」を提供しているとも思うんです。

ぼくらが日々、どこかビクビクしながら生活しなくてはいけないのは、社会的評価というものが常に存在しているからです。家庭では良き夫、良き父親であり続けなければならないし、職場では常に成果が求められる。

そのどちらでもない、社会的評価から離れて気を張らずに済む場所「サードプレイス」が、人間には本来必要なはず。そう説いたのはアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグでしたが、お寺はまさにサードプレイスになり得る空間だと思います。

だって、お寺で名刺交換する人なんていないじゃないですか。どんなエラい肩書きの人だってお寺では横並びです。電車の列に割り込まれたらイライラする人も、お焼香の列に割り込まれてイライラはしない。お寺にはそういう「安心できる空気」がある気がします。

人生を変えた「自利利他円満」の教え

それにしても、お坊さんでもなんでもない松村さんは、どうして「お寺の役割を再定義する」活動にここまで身を投じているんですか?

うーん、なんでだろう……。理由は一つじゃない気がしますが、ぼくには昔から個人的に抱えていた、人生の疑問があります。それは「自分の利益とそれ以外、たとえば世の中の役に立つとか、やりがいがあるということは、並び立たないんじゃないか」という疑問です。

最初に就職した映像会社でもそうでした。その会社は映画も撮っていたんですが、映画って本当にお金にならないんですよ。かたや企業PRやテレビの仕事はお金になります。だから「これを多くの人に見てほしい!」という一心で頑張って映画を作るんだけど、その一本を作るために、大量のやりたくもない仕事で苦労することになる。そういう経験をするたびに、「ああ、両立って難しいなあ」と思っていたんです。

ところが、仏教がその疑問に対して違う答えをくれたんですよ! 仏教には「自利利他円満」という考え方があります。要は、自分のやりたいこと(自利)がそのまま誰かのため(利他)になれば、すごく充実した人生を歩める(円満)んじゃない?という提案です。

きょうのお話に何度も出てきた「自分の幸せと他人の幸せを重ねる」考え方ですね。

そうです。そこが相反している限り、人って幸せになれないんです。仮に仲のいい友達と会社を興したとしても、それぞれの利害がぶつかるから必ず離れる時が来てしまう。そういう状態の社長は、社員に対してもきっと優しく接することはできないでしょう。

一方で、「滅私奉公」という言葉があるじゃないですか。あれはあれで幸せには程遠いんだと思うんです。だって「自分を滅しちゃう」んだから。

……というようなことをずっと疑問に思っていた時に、仏教の「自利利他円満」の考え方に出会って、実は両立し得るということを知った。だからぼくはその時、結構感動したんですよ。これは世の中にシェアする価値があるぞ、と。そんなこともあってじゃないですかね、ぼくの使命が「お坊さんの応援係」になったのは。

お坊さんのいる本屋さん『書坊(しょぼう)』をオープンしたい!
  • 内容
    恵比寿駅徒歩4分の場所に、お坊さんのいる本屋『書坊』をオープンさせます。 書坊のテーマは「心と体の健康」。 ユニークな本やイベントなどを通して、自分に意識を向け、自分に優しくなれる時間を提供していきたいと考えています。
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すずきあつお

元新聞記者で、現在はフリーのライター/編集者。プロレスとプロレス的なものが好きです。

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