コラム

息するだけで仕事になる? 型破りNPOが僕らの「常識」を揺さぶる

なにはともあれ、まずはこのクスッとくるけど同時にドキッともするような作品の数々に目を通してほしい。


【ちゃんと歯、磨いているのに。/Ackey/2014】


【ひらめき/向井久夫/2016】

これらはすべて京都・上賀茂にあるNPO法人・スウィングに所属する障害者による作品だ。こういう絵を描いたり詩を書いたり、あるいは戦隊モノの格好をして市内のゴミ清掃をしたりするのが彼らの仕事(の一部)という。

さて、仕事とは何か?と問われてあなたならどう答えるだろうか。

ものやサービスを作って世の中に価値を生み出すこと? 課されたタスクをこなしてお金を稼ぐこと? じゃあ、直接ものやサービスを作る以外の行為は仕事ではないのか。それをすることでお金がもらえなかったら仕事とは言えないのか

世の中のあらゆることは、これと定義した瞬間にこういうツッコミの標的になるからめんどくさい。ましてその定義が人から押しつけられたものだとすると、そこに生じる窮屈さたるや筆舌に尽くしがたいものがある。

スウィングの代表・木ノ戸昌幸さんは通所する仲間たちとともに日々、こうして押しつけられた「定義」「常識」「まとも」を揺らす実験を続けている。世の中で「まとも」とされる“ギリギリアウト”を狙うことで、「まとも」の範囲を拡張し続けている。そうすると、それまでは狭い「まとも」に無理やり合わせることを強いられてきた人たちが、ありのままでいてもなんとか大丈夫、という話になる。結果、生きやすくなる。

木ノ戸さんは初めての著書『まともがゆれる』の中で「仕事とは、人や社会に対して働きかけること」であると書いている。今回はこの定義をスタート地点として、世の中を覆う生きづらさとどう向き合えばいいのかを考えたい。これは一部の障害者の話ではない。僕ら自身の話だ。

いまの世の中「まとも」の範囲が狭すぎる

木ノ戸さんは本の中で、仕事を「人や社会に対して働きかけること」と定義しています。この定義がなかなか強力だなと思いました。

仕事でもなんでもそうなんですけど、言葉の概念や定義みたいなものを広げていったほうがラクになるんじゃないかと思っていて。いまは「まとも」と言われるものの範囲が狭すぎる。仕事に関してもそうで、みんなが「これが仕事だ」と思っているものが狭すぎる気がするんです。

その幅を広げていけば、広げたところに入っていける人が増える。つまり仕事ができる人が増える。人が変わるのではなく、仕事の概念のほうが変わることで、結果としてそういうことが生まれる。

このように考えて、僕らは「息をしている」というのを最小かつ最大の仕事だと言ってます。

最小かつ最大。

例えば喫茶店で働くとか、ものを書く仕事というのも、息をしてないとできないじゃないですか。みんな意識はしてないけど、それがないとあらゆる仕事は成り立たないですよね。

障害のある人には、身動きが取れなくて本当に息をすることしかできない人もいます。そういう人が何もしていないのかと言ったら、そんなことはない。一生懸命に生きている。ちょっと話が逸れるように聞こえるかもしれないですけど、そういう人がいると、みんながその人のことを気にするんですよ。

その人がその場所にいるということが、みんなになんらかの影響を与えているわけです。

そこに「いる」だけで影響を与えている。

だからそれも「働く」なんだと思うんです。働きかけている。

これは概念的な話だけではなく、動けない人がいることで、例えばヘルパーさんの仕事が生まれたりということが起こる。その意味では、ヘルパーさんというのは、そういう人がいることによってお金をもらえているのだとも言えます。だから、こういう仕事は決して「してあげている」のではなく、ギブアンドテイクの関係なんだろうな、と。

……というふうに「息をする」とか「ただいる」ということまで仕事だと言ってしまえば、それはまあ相当にラクですよね。

サボっている時も仕事をしてることになる。

そうそう。僕らは「休むのも仕事だ」と言ってます。世の中には、休むことに罪悪感を感じて休みにくいという人が結構な数いるんで。休むことにも仕事という名前を与えることによって、そういう人も仕事ができる。つまりは休みやすくなる。

スウィングの標語「OYSS!(オイッス。O=面白いこと・Y=役に立つこと・S=したり・S=しなかったり)」にも通じる考え方ですね。「しなかったり」というのがいいなと思いました。

「しない」選択をするのは、ラクをしているようでいて実は難しい。いまはどちらかというと「すればするほどいい」という価値観じゃないですか。もっと「逃げる」とか「サボる」とか「しない」とかの選択肢があってもいいんじゃないか、そういう選択肢が増えればいいなと思って、僕らは発信しているんです。

「お金を目的としない仕事」という実験

「息をする」「ただいる」が最小かつ最大の仕事。そういう考え方から、どうやってゴミコロリとか、バスの案内とか、そういう具体的な仕事が生まれていったんですか?


京都を訪れたことのある人であれば、バス路線の複雑さに困った経験があるのではないか。2012年6月にスタートした京都人力交通案内「アナタの行き先、教えます。」は、そんなお悩みを解決するために彼らが「勝手に」始めたボランティア活動。京都市バスの路線・系統をなぜかほぼ丸暗記しているQさんとXLさんが、その脅威の能力を”仕事”に変えてしまった

考え方の出発点としては「息をしてるだけで仕事になる」ということなんだけれども、本当にそれだけを仕事としてやっていたら、スウィングは廃人の集まりのようになっちゃう。なのでそういう仕事観から出発して、具体的な、目に見える実践を作っていこうと思った。その際に考えたのは、お金を目的としない仕事を作ろう、ということで。

お金にならない仕事。

僕たちは非営利組織だから、企業のように営利を目的としないというのがそもそものスタート。なおかつ障害者というのは、世の中の社会構造だったり産業構造だったりから「合わない」と宣告された人たちなんですよ。合わないからこそ障害者と呼ばれている。

合わないと宣告されているのに、こちらからまた合わせにいくのも変な話だろう、と。それで、どうせ合わないなら自分たちなりのやり方で実験しよう、ということにしました。

仕事に求めるものは人それぞれではあるけれども、総じてお金を稼ぐために仕事をする、というのが世間の「まとも」という気がします。それをあえて外そう、と。

いまじゃ喜んでゴミブルーになってるような人からも、最初は当たり前のように「金にならないことをやってなんの意味があるのか?」という意見が上がりました。「やってみなければわからないから」と言って始めたんだけど、これがまあ、見事に一銭にもならない。

けれども最初はそういう反応だった人が、やり続けることで次第に「これが私の仕事だ」というように変わっていったんです。


ゴミコロリは、スウィング利用者たちがローカルヒーロー「まち美化戦隊ゴミコロレンジャー」に扮して行う、京都市内の清掃活動。2008年10月にスタートし、現在までに125回の開催を数える。始めた当初は不審者として通報され、パトカーに取り囲まれたこともあったが、いまでは町の人気者として子どもたちに握手を求められるまでになった。ちなみに隊員は全員が「ブルー」。彼らには戦隊モノの「常識」も通用しないのだ

ある時利用者の一人である女性に対して意地悪をしてみたことがあります。「10万円あげるからゴミコロリに参加しないでくれ」と言って、10万円というお金とゴミコロリという仕事を天秤にかけさせた。すると、当初はこの活動に乗り気ではなかった彼女が、10万円はいらないからゴミコロリに参加させてくれ、と。おそらくは本気の言葉だったろうと思います。

お金ではなく”仕事”を取った。

それはやっぱり、楽しいことだとか、やりがい、活動を通じて生まれる出会いとか関係性があったということなんだろうなって。そういうことに遭遇し続けた結果、それが自分の仕事であると疑わなくなっていった。だからお金はもちろん必要なものだけれど、仕事をする上ではそれだけではなく、やっていて楽しいとか、やりがいを感じるとか、誰かの役に立っている実感があるとか、そういうことが当たり前に大事ということなんだと思いますね。

まるでベーシックインカム導入後の世界を先取りしているみたいな話ですね。

XLさんの絵なんかは、メディアに取り上げられたことで、結構な値段がつくようになっています。その結果、いまでは10万円をポンっと払える人しか彼の描いた絵には出会えない。描いた本人ですら買えないというおかしなことが起きている。

でも、かといって10万円払ってでもそれを欲しいと言ってくれる人がいるのに、値下げするのは違うだろう、と。だったらいっそのことお金をもらうことをやめて、あげてみたらどうなるだろうという実験をしました。それが昨年開催した展覧会「全部あげちゃう♡」です。

抽選で選ばれた人に、その人が描いて欲しい絵をタダで描きますと言って募集したところ、すごく大きな反響がありました。同じことを詩でもやったんです。詩であれば、絵と違って書くのにそれほど時間がかからないから。そうやって山ほど書いた詩を展覧会で「ご自由にお持ちください」と置いておいた。

どうなったんですか?

1週間程度の会期中に200枚くらいの詩がもらわれていきました。タダだし遠慮するかとも思ったら、意外なほどガッサガサと持っていかれて。

1000円でも500円でも、値がついていたらここまでのことは起こらなかっただろうと思うんです。タダで贈られたからこそ「自分の家にこれを飾ろう」とか「誰かにあげたい」と思ってもらえた。お金を介さないからこそ、そういういい循環が生まれたんだろうな、と。

当人たちは当初、何枚も書かされるものだから怒っていたんです。ブツブツ言って怒りながらひたすら書いた。でも、自分の絵や詩がもらわれていく光景に出くわすと、みんなシンプルに喜ぶんですね。

この経験を通じて、僕らはお金の概念を取り払うことで生まれる清々しさ、いい循環を実感しました。お金で買ってもらっても嬉しいけれど、タダでもらわれるのでも嬉しいことを知ったんです。

なおかつ、そういうやり方に対して「いいね」という意見が集まると、スウィングの会員が増えたり、有料で販売しているものまで売れたりと、結果的にその周辺にお金も生まれるんですね。「本を書きませんか?」という話が来るのもそうですし。そんなにぼろ儲けできるわけではもちろんないけれど、いい循環の後にはお金も発生するんだなって。

パンイチのシンデレラが絵を描くことで”変わった”

本の中では自分らしい表現を持つことの意味にも触れられています。「オレたちひょうげん族」の活動はどのように始まったんでしょうか?

僕らは普段、八ツ橋の箱を折るとかハーブ石鹸を作るとか、そういう地味で地道な仕事をしています。それが2008年ごろ、リーマンショックの影響からか、そういう仕事がぱったりとなくなって、何にもやることがないという状況に陥った。そんな時に利用者の一人であるかなえさんという人が突然、絵を描き始めたんです。すごく暇な時期だったからそれを真似する人が増えていき、ちょっとしたブームが起きた。これが「オレたちひょうげん族」の始まりです。

そのブームの中で最後まで描き続けた人が3人いたんですけど、そのうちの一人がQさんという人で。


芸術創作活動「オレたちひょうげん族」は2008年にスタートした。展覧会を開催したりグッズを製作・販売したりすることは、スウィング利用者と社会との接点であると同時に、既存の仕事観や芸術観に対する「おもしろおかしい」問題提起にもなっている。中央の水色のシャツを着ているのがQさん

Qさんは本の中にも度々登場しますね。

Qさんは本当に”暴力的”な人なんですよ。街なかでも突然、大きな声を出してしまう。昨年東京出張に来た時もそうでした。居酒屋で大好きな卵焼きを頼んだら、「売り切れました」と。まあ仕方ないですよね。でもその次の瞬間、別のテーブルに卵焼きが運ばれる様子を見てしまったんです。それで大声を出してしまった。東京のそこそこ人の入っている居酒屋で、卵焼きが出ないというだけの理由で、周りの人全員をシーンとさせるくらいに全力で叫び出してしまう。そういう人なんです。

別のある時は、ホテルのロビーにあるテレビで大好きな高校野球を観戦していたら、応援していたチームが負けてしまった。それだけでもムカムカするんだけど、あろうことか、勝ったチームを応援していた隣の人が派手に喜ぶのを目にしてしまった。これで火がついた。

次の瞬間、ホテルの真ん中にある、シンデレラに出てくるようなでかい階段を駆け上がって。紐が緩んでいたのか、次第にズボンがずり下がってしまった。そんな時、普通の人であればズボンを上げることを選ぶと思うんですけど、Qさんは脱ぐことを選んだんですね、そのほうが走りやすいからといって。シンデレラは靴が脱げたけど、Qさんはズボンを脱いで、パンツ一丁で駆け回った。

僕らはその様子を笑って見てたんですけど、当然周りの人は唖然としてしまって。そういう人なんですよ、Qさんは。その彼が、絵を描くことにハマった。だから本当にびっくりしたんです。「Qさんにこんなに好きなことがあったのか!」って。

絵を描き始めたことでQさんは変わっていった?

彼はいま、初めて会う人の似顔絵を描いています。人と関係を築くことができなかった人が、まったく知らない人の絵を描いているんですよ。彼の表現自体ももちろん面白いのだけど、それ以上に「あのQさんが、絵を描くことを通じて人と関係を築けている」という事実に僕らは驚いています。

Qさんはもともとお金が好きな人で、彼が似顔絵を始めたのも、もともとはお金が欲しいからでした。でも、いまはそれだけではないと感じます。お金がもらえるというのももちろんあると思うけれど、いろいろな人と関われることに喜びを感じているようにも見える。そもそも人と関わるとか、その中で笑顔になるということがまずなかった人なのに。本当にびっくりですよ。

何が起きているんですかね。

きれいごとになってしまうけど、「自分でいられる」ってことなんだと思いますね。僕らが表現と言っているのは、絵とか詩に限りません。こうやって話したりするのもそうだし、仕事と呼んでいることも表現の一つ。Qさんはいま、自分らしい表現ができてるってことなんだろうと思います。

世の中はどんどん「まとも」や「常識」や「普通」を押しつけてくるじゃないですか。だから「自分でいる」ことがとても難しい。もちろん生きていく上では何かを我慢しなければならないこともあるけれど、でも、日常的に我慢して生きていると、それを他人にも強いてしまうんですよね。「俺も嫌なことがありつつも歯を食いしばって頑張っているんだから、お前だって頑張って当然だ」って。そういうところから世の中はどんどん生きづらくなる。自分らしくいられなくなる。

僕らはよく「ギリギリアウトを狙う」というんですけど、「こんなことも仕事になるよ」「これも仕事と言えるんじゃないかな?」というふうに「まとも」の範囲を少しずつ広げて発信することで、「ああそうかも」と思ってくれる人が世の中に増えてくれたらいいなあと思っていて。それで毎日、「まとも」を揺らす実験を続けているんです。

知っているか。歯茎はやがて歯に進化する

素朴な疑問なんですけど、木ノ戸さんたちはパンイチで駆け回るQさんを見て、自然と笑えるものなんですか? 世間的には障害者を笑うことはあまり良くないこととされている気がするんですけど。

障害とか健常とかは、僕らの中ではもはやギャグみたいなものになっているんですよね。普段から本当にそんな違いなんてないと思って過ごしているから、ふとした時に彼らの変なところに気がついて「ああ、こいつやっぱり障害者だったんだ」と気づくみたいな逆転現象が起こる。

居酒屋で大声を出すとか、ホテルをパンイチで走り回るとか、それが自分の日常になっていれば、笑える景色にもなる。単純に、自分の「当たり前」をどこに持っていくかって話なんじゃないかな。

「まとも」が変われば世界が変わる、と。

スウィングを始めた動機は何かとよく聞かれるんですけど、大元まで辿れば、僕自身が感じていた生きづらさということになります。僕は14、15歳でもう、「いい大学へ行って、いい就職先を見つけて」みたいな価値観に絶望していて。自分はその価値観の中では生きていけないと気づいていたんですね。でも、気づいてはいても、その段階ではまだレールから外れるという選択肢が見えていなかった。だから10代は苦しい時期が続きました。

それが少しずつ変わっていったのは20歳を超えて、まったく違う価値観を持った人と出会ってからです。自分は障害者福祉の世界に入る前、縁あって遺跡発掘の仕事をしていた時期があるんですけど、そこには本当にいろいろな人が集まるんですよね。「兄ちゃんくらいの年やったらシャブ(覚せい剤)が楽しくて仕方ないだろう? やってないのか? お前は寂しい奴だな」みたいなじいさんもいる。

「この人は何を言っているんだろう」と思いましたけど、言っている本人は本気です。それくらいに「当たり前」が違う。そういう人たちと一緒に過ごしていると、いろいろと壊れていくんですよ。覚せい剤は当然やらないですけどね。でも、そうした中で、それまで「自立しろ」とか「目的を持て」とか、そういう言葉に縛られてしんどかったんだということに気がつくことができた。それでラクになったんです。

まさに「まとも」が揺れる体験ですね。

「オレたちひょうげん族」もそうで、こういう活動をやっていると、勝手にブレイクスルーする奴が出てきます。この作品を見てください。これが出てきた時にはマジで衝撃を受けましたよ。


【うちのともだち(中井さん)がジェットブレードでとんでいる!/KAZUSHI/2018】

こういう作品が生まれるということは、それが生まれるような「何をしてもいい」という環境が、スウィングにはすでにあるということ。でも、一人こういう突き抜けた奴が出てくると、より周りの自由度が増すんです。「ああ、これがOKなのか」と思った周りの奴が、どんどん自由な作品を生み出す。これがアリなんだったらなんでもアリだなって。

アリなことがどんどん増える循環になると、多少無茶なことを言っても「いいね、いいね」となりやすくなります。陸上100mで10秒を切る人が一人現れると、一気に9秒台の世界に行くように。スタンダード、「当たり前」が変わるんですよ。

付き合う人や環境が変われば「まとも」や「当たり前」は変わる。いま信じている「当たり前」は、それくらい胡乱(うろん)なものだってことですよね。

XLさんには敷布団を敷くという習慣がなかったんです。僕がおせっかいを焼いて敷布団というニュー快適アイテムを導入するまで、真夏でも真冬でも敷布団なしで寝る生活で健全に生きていた。

見てください。彼には歯がないんです。

人間は歯がなくなったら入れ歯をするものだと思ってますよね? でもその「常識」は間違いです。彼は入れ歯をしない。でも肉を嚙み切れるんです。歯がないままに食っていたら、歯茎が発達して肉を噛み切れるようになったんです。歯茎が歯なんですよ。これはほんまにすごいことですよ。

ここまでいろいろ話してきたけど、これが今日一番言いたいことかもしれないです。入れ歯はいらない。歯茎は進化し、やがて歯になるんです。

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すずきあつお

元新聞記者で、現在はフリーのライター/編集者。プロレスとプロレス的なものが好きです。

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