コラム

幸せって何だろう? 正解のない時代の「いい暮らし」を考える

気候変動、人種差別、種の絶滅、貧困、戦争……。いま、僕らの生きる世界では、さまざまな種類の課題がかつてない規模で立ち現れてきている。

その一つ一つと日常的に深く向き合うことはなかったとしても、「どうも何かがうまくいっていないのではないか?」という感覚は、少なくない人が共通して持っているところではないだろうか。

あるいは、毎朝満員電車に揺られて通勤し、一日中パソコンのスクリーンを見て過ごす日々に、「どうも自分が思い描いていた生活とは違う」とか、「はたして自分の仕事が、本当に世の中に貢献していることになるのだろうか」とか、ふとした瞬間に、そんなことを考えてしまう人はいないだろうか。

たくさん働き、たくさんお金を稼いで、たくさんの物に囲まれる暮らしを「いい暮らし」としてこれまで当たり前のように受け入れてきたけれども、それとは別に、自分にとって本当に「いい暮らし」がどこかにあるのではないか。シンプルライフ、ミニマルライフという言葉を聞かない日はないくらいに、そんなふうに考える人が、ここ日本でも徐々に増えてきているように映る。

壊れた世界で“グッドライフ”を探して

昨年9月に、『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』という翻訳書が日本で刊行された。

著者は1970年生まれのアメリカのノンフィクションライター、マーク・サンディーン。最低限のものに囲まれ、無駄な消費をすることのないシンプルな暮らしを実践する3組の家族への取材から、本当の意味で倫理的で自由な生き方ができるのかどうか、その可能性を探った一冊だ。

わざわざ「本当の意味で」と書くのは、シンプルな暮らしを実践するというのは、頭で思い描いたり、言葉にして口にしたりするほど簡単なことではないからだ。

例えばフリーライターである僕は今日、場所を選ばず、身一つで仕事をすることができる。けれどもそんなシンプルなワークスタイルが可能なのは、常時接続のインターネットとMacBook Airがあるおかげだ。その2つがどのようにして生み出されているのかに想いを馳せれば、シンプルな暮らしは、たくさんのシンプルでないものに支えられてできていることが、すぐにわかる。

そんなことを言うと、「この時代に、本当の意味でのシンプルな暮らしを実践できる人なんて、ほとんどいないのでは?」と思う人もいるだろう。あるいは、「そこまで突き詰めたシンプルライフが、はたして本当に自分にとっての『いい暮らし』なのだろうか?」と疑問に感じる人も少なくないかもしれない。

実は、この本の著者もその一人だ。シンプルな暮らしに憧れを抱きつつも、一冊を通じてそんな逡巡を繰り返す。上から目線で白か黒かを断じるのではない、そこにこの本のユニークさがある。

昨年末、この本を題材に、これからの時代の「いい暮らし」について考えるトークイベント「僕たちの“グッドライフ”を探して~資本主義を突き抜けた世界最先端の生き方~」が都内で開催された。

イベントは2部構成で、第1部は同書の担当編集であるNHK出版の松島倫明さんと、解説を執筆したNPO法人グリーンズ代表の鈴木菜央さんが語る、この本の「背景にあるものは何か」。第2部では、「日本における“グッドライフ”の先進動向」として、さまざまな実践例が紹介された。

この記事では、イベント前半の内容を中心に、その模様をダイジェストで紹介する。

日本で言われるシンプルライフは本当にシンプルか?

担当編集の松島さんは、「デジタルとフィジカル(身体性)の再接続」をテーマに、これまでもさまざまな翻訳書を手がけてきた。『FREE』や『SHARE』などのデジタルテクノロジーによる社会の変革を追う書籍が話題をさらった一方で、『BORN TO RUN』『GO WILD』など野生の身体性に根ざした生き方を追求した作品も多い。

そうした本を単に手がけたということにとどまらず、数年前からは鎌倉に居を構え、トレイルランニングやマインドフルネスをライフスタイルに取り入れるなど、松島さん自身がその実践者でもある。

今回この本を手がけることになった背景には、まず松島さん自身に「こういう自給自足的な生活に対する憧れがあった」

ところが、一昨年の夏前に原稿を読んで「ぜひやりたい」と思ってから、実際に日本で刊行することを決めるまでには時間がかかったのだという。はたしてこれが日本の読者に受け入れられるのだろうかということに、確信が持てなかったからだ。

シンプルライフという言葉や概念は、日本でもすでに話題になり始めてはいた。松島さんをためらわせたもの、そして、それでもなお出版を決断させたものはなんだったのだろうか。

松島

シンプルライフとかミニマルライフっていうのがすごく巷にあふれてきて、言葉として、あるいは態度として(日本にも)伝わってきているように思えるんだけれども、一方でこの本に出てくるのは、徹底したシンプルライフ、政治性を伴ったシンプルライフを試みている人たちなので、これは日本ではどうだろうなあという逡巡があったんです。それで寝かせていたんですけど、そうしたら11月になって(米大統領選で)トランプが当選したんですね。それはある種、リベラル(※個人の自由を重んじる考え方)の敗北みたいなものだと言われるわけです。そうした時に、これまでのように頭でっかちな、実際の生活にコミットしない仕組みとしてのリベラルではなくて、リアルな土なり、リアルな生活なりというところから、もう一度リベラリズムみたいなものを組み立て直す必要があるのではないか。そのなかでこの本の重要さというのはやっぱりあるなと思ったんです。

 
日本でシンプルライフと言った時には、それは単に物に囲まれない心地よい暮らしを指すものとして誤解されがちだ。だが、本来それは、大量生産・大量消費を良しとして、戦争や環境破壊に加担するような価値観に対する「不服従の表明」であるはずと松島さんは言う。

この本に登場する家族はまさにそのような人たちであり、そのギャップがあるがゆえに、日本では受け入れられない懸念があった。そんななか見出した日本への「文脈」が、先ほどから触れている、著者の「迷いに迷う」書き手としてのスタンスだったという。

松島

彼はスタンフォード大を出てジャーナリズムをやっているインテリでありながら、自給自足的な生活に憧れている。でも、完全にそこにコミットはできないし、「そもそも自分が半分だけ農業を、みたいな生活ができるのは、パソコンを使ってるからだし、飛行機に乗っていろんなところに取材に行けるからだ」と。「飛行機に乗るってことは、それだけCO2を排出するのを肯定することになる。結局、全然地球に優しくない暮らしに支えられて、僕は地球に優しい暮らしをしているんだ」みたいなことを、彼はグルグルと考え出すんですね。僕自身、そこにものすごく親近感を感じたのと、そういう彼の書き手としてのスタンスが、日本への文脈というか、橋渡しのようにしてつないでくれるのではないかという思いがありました。

原理主義に行かずに悩むところが21世紀的


鈴木さんが言及する「仲間」とは、BAMPで以前取材したソーヤー海さんのこと。彼の徹底的に考え抜かれた生き方は、鈴木さんをも理想と現実の狭間で思い悩ませるのだという

松島さんに解説文の執筆を依頼された鈴木さんは、このようにして迷いまくる著者の態度を前に、「俺のための本か!」と思ったという。

千葉県のいすみ市で家族とともにタイニーハウス(小さな家)に住み、シンプルな暮らしを実践する鈴木さんだが、著者と同じような葛藤を日々感じてきたのだと告白する。

鈴木

僕は仲間たちと一緒に「パーマカルチャーと平和道場」という、新しい時代の暮らし方を学ぶ学校みたいなところをやっているんですけど、メンバーによっては、この本に出てくる人のように原理主義的というか、車にも乗らない、Eメールもやらない、Facebookも一切やらない、そういう生き方をしている人もいるんですね。そこに集まってくるのは、とにかくいろいろなことをしっかり考えて、「本当の生き方ってなんだろう?」ってことを追求していくタイプの人たちなんです。そういう人たちと一緒にやっていくなかで、僕としてもやっぱり日々、いろいろなことを考えないといけなくて。でも、どちらかというと、僕は著者に近い立場。理想もあるけど、現実もある。これまでのこういう本の多くは、「これは正しい。だからこれ以外は正しくない」っていう、ドグマティック(独断的)で排他的な傾向が強かった。まあ一部の人はすごくいいかもしれないけれど、ほとんどの人はどうやったらそれをフォローできるんだよっていう。僕もさっき言った仲間に対して、そういう思いを抱かざるを得ない時があったんです。

 
心地よい暮らしとは何かを探った『そして、暮らしは共同体になる』の著者として知られ、今回モデレーターを務めた編集者の佐々木俊尚さんは、著者や鈴木さんが示すように、原理主義に行かずに悩み続けるところこそが「極めて優れて21世紀的だ」と指摘する。

佐々木

ミニマリストの生活って、もちろん家の中には何もなくて気持ちがいいですよ。でも、そういう人の家に冷蔵庫がないのはなぜかというと、近所にコンビニがあるからです。結局コンビニの冷蔵庫を使ってるじゃんって話なわけですよ。一方で、例えば限界集落のような周りにあんまり人のいないところで自給自足の生活をしようとすると、ミニマリストには絶対になれない。農機具を含めて、必要な物は増えていく。ミニマリストってシンプルでかっこいい生活に見えるんだけど、これほど現代文明に依存する生活もない。そういうジレンマが実はあるじゃないですか。1970年代にもヒッピーコミューンが盛り上がって、都会から脱出して、田舎で集団で自給自足の生活をしようという動きがあったんですけど、当時の彼らにはあまりそういう悩みはなくて、資本主義とテクノロジーを否定すれば、その先には幸せが待ってるんだという考えだった。それっていま思えば牧歌的だし、幻想だよって思うんです。そこを乗り越えた上で、もう一回何か考えましょうよっていうところが、現代的で新しいんじゃないかと思います。

隔絶せずに、つながることが存続のカギ

既存の社会の仕組みや価値観を全否定し、そこから隔絶した理想郷を作ろうとした1970年代のヒッピーコミューンと比較して、いま各地で興っている新しいコミュニティには、社会や経済とうまくつながり、共存していこうとする動きが見えると松島さんは言う。

「どのように地域とつながっていくか、自分たちの新しい暮らし方がどのように日本社会に影響を与えていくかを考えてきた」と語る鈴木さんがいすみ市でやってきたのも、まさにそうした取り組みだった。

鈴木

最近、いすみで「地域の起業家を育てる」というのを始めたんです。地域のお金が地元に残らないで、外へ出ていってしまうという構造がすごくあって、地域が疲弊していく原因になっている。だったら、地域でお金を作って、地域の人を雇用して、地域の素材を使って仕事を作る人たちを育てていけばいいんじゃないか、と。その講座には、結構地元の人が来てくれるんですよ。要は、イデオロギーとして「サステイナブルな生き方を!」とか一切言わないで、ひたすら地域のために活動すると、彼らも共有の未来を見ているので、イデオロギーを超えてつながれるんですよね。もう一つ、地域通貨も始めて1年半くらい経つんですけど、そこにも地元の人がちょこちょこ入り始めてるんですね。面白いのは、多様な人たちがいるので、誰かの困りごとは、誰かの楽しみだったりするということ。例えば、伊勢エビ漁をやっている漁師さんがいるんですが、伊勢エビを獲った後に網に残る雑魚を取るのが結構大変だ、と。そこで「地域通貨と魚をあげるから手伝って」と呼びかけると、都会から移住してきたメンバーが多いから、みんな喜んで手伝ってくれる。そこには何か新しい関係性が生まれてるんですね。

 
佐々木さんによれば、1970年代のヒッピーコミューンがその後消滅してしまったのには、大きく3つのパターンがあったという。

1つは、山の中で自分たちだけで暮らしているので、集団内で争って自滅するパターン。2つめは、集団内の同調圧力を高めた結果、宗教団体になるパターン。3つめが、地元の伝統的な共同体から嫁を娶るなどしていった末に、そのまま同化して飲み込まれるパターンだ。

いずれも、周辺の伝統的な共同体とうまくやりとりができなかったという点で共通していると佐々木さんは言う。

なんのためのシンプルライフなのか、自分のライフスタイルが一体何に支えられて成り立っているのかに想像を巡らすことは大事だけれど、それ以外を全否定して隔絶したのでは、結局「いい暮らし」にはたどり着かない。伝統的な共同体や既存の価値観とどうやってつながり、共存できるかが、こうしたコミュニティの存続のカギになるということのようだ。

テクノロジーとコミュニティ、その根っこは一緒

つながりというものを考える上で、1970年代といまとで大きく違うものの一つに、ソーシャルネットワークの存在がある。テクノロジーとコミュニティの関係、あるいはつながりというものについて、松島さんは次のようにも話した。

松島

(リーマン・ショック後、こうした動きがアメリカで再び盛り上がり始めた)2008年以降って、ソーシャルネットワークが勃興してきた時期とすごく被っていて。あれ以来、僕らはネットワークというものをすごく体感できるようになってきた。この10年で、広がりとつながりという思考にどんどん変わってきていると思うんですよ。僕はテクノロジーカルチャーの翻訳書を作ることが多いんですけど、やっぱりその根っこは60年代、70年代にあると思っていて。ヒッピーのバイブルと言われた『WHOLE EARTH CATALOG』には、例えばヨガとかテントの張り方とか火のおこし方と、パーソナル・コンピュータの作り方というのが一緒に載っているわけですよね。要するに、高度経済成長時代になってきた60年代において、もう一度人間性を取り戻すことに資するものとしてテクノロジーがある。スティーブ・ジョブズのような人はそこにどっぷり浸かっていて、そこから会社を作っているわけで。良くも悪くも「カルフォルニア・イデオロギー」とか言われますけど、そういうものが連綿といまに至るまでつながっているんだと思うんです。2008年ごろにちょうどソーシャルネットワークが生まれたというのは、もちろん偶然なんですけども、(テクノロジーによって)人々をつなげることで何かが生まれるはずだ、あるいは地球がもっとちっちゃくなるはずだという大きな思想と、こうした21世紀型の新しいコミュニティって、もしかしたらパラレルに発展しているのかなと思うところはありますね。

 
コンピュータはそれまで、ひとつの部屋くらいある巨大なもので、それを使えるのは政府機関や一部の大企業に限られていた。それを個人が自分の能力を発揮するためのツールにしたのがパーソナル・コンピュータだ。

ジョブズがアップルを創業したのもそうした思想があってのことであり、「テクノロジーと解放された精神というのは本来不可分のもののはずだった」と佐々木さん。

なにか原理主義的に、テクノロジーと人間的な暮らしとを二項対立で考えてしまいがちだけれども、実際はそうではないということだ。

日本における“グッドライフ”

実は、こうした新しいコミュニティというのは、ここ日本でも各地で興り始めている。

例えば、第2部に登壇した藤代健介さんが発起人となって立ち上げたCiftは、昨年4月に渋谷に誕生した複合施設「渋谷キャスト」を拠点に、約40人のクリエイターが共同生活を送りながら、新しい暮らしのあり方、働き方を模索する都会型の実験的なコミュニティだ。

このイベントの主催者でもある、ReVorg代表の鯉谷ヨシヒロさんが中心になって昨年9月に日本版をローンチしたNumundoというサービスは、国内27カ所、世界に約370カ所(記事執筆時点)あるエコビレッジ、オーガニックファーム、パーマカルチャーセンターなどをつなぐネットワーク

利用者はこのサービスを通じて、こうしたコミュニティに宿泊したり、ワークショップという形で実際に「最先端の暮らし」を体験したりすることができる。

都会で暮らす人から見れば、こうしたコミュニティのようなものはこれまで、「原理主義的な人が対岸で何かやっている」というものでしかなかったかもしれない。

けれども、21世紀的にアップデートされたコミュニティの姿勢やデジタルテクノロジーの力によって、都会的な暮らし、あるいは僕ら自身の「いい暮らしとは何か?」という思いと接続し始めているように見える。

イベントの最後に「100年後の共同体はどうなっている?」と問われた鈴木さんは、次のように答えた。

鈴木

これまでの時代って、「君たち、こう生きればいいんじゃない?」っていうものがなんとなくでもあったと思うんですよ。だけどそれがもう、わけわからなくなったというか、なくなってきた時代なんで。何が幸せかっていうのは、それぞれが決める時代かなって思うんですね。だからある意味ハード。自分で勉強しなきゃいけないし、自分がとった行動の責任は自分で取らなきゃいけない。だけど、それをコミュニティの中でみんなでやるということが、あちこちで始まっていくんだと思うんです。まあ「ピークオイル」とかって言われてますけど、100年単位で見たらどう考えても脱石油経済に移行していくっていう流れではあると思うので、そこに向かって、「じゃあみんなの幸せってなんなの?」っていうことを、地域単位で、みんなでつながりながら考えていく100年にしたいと思います。

 
これまで「いい暮らし」とされてきたものを無批判に受け入れるのでもなく、一方でそうでないものを唯一解のようにして崇めるのでもなく。迷いながら、悩みながら、「僕たちのグッドライフとは何か?」を問い続けなければならないのだろう。

『Numundo』のようなサービスを使って実際にいろいろと体験し、またすでに実践している人たちとつながることは、その大きな助けになるように思える。こうした取り組みの全てをここで紹介することは難しい。BAMPではこのテーマを引き続き追っていきたい。

すずきあつお

元新聞記者で、現在はフリーのライター/編集者。プロレスとプロレス的なものが好きです。

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