伝統工芸、漆塗りの最高峰「輪島塗」。社会の授業やテレビゲーム「桃太郎電鉄」で知ってはいても、実際に輪島塗の食器を持っている人は少ないだろう。
輪島塗の家業を営む家に生まれ、25歳の若さで自らの名を冠したブランドを立ち上げた若者がいると聞き、連絡を取った。
さぞ自信に満ちあふれた人柄なのだろうと思っていた。
しかし、そこにいたのは「家業が嫌いで」「父に怒られて凹んじゃって」「伝えるのがほんとうにへたで……」と恐縮するばかりの謙虚な青年。
そして、そんな彼をクリエイティブの面から支え、時に厳しい言葉で叱咤激励するプロレス好きのクリエイティブディレクターと、豊富な現場経験からアドバイスを惜しまない百貨店バイヤーだった。
未踏の領域を進む桐本滉平さん(25)に「輪島キリモト」の現在地と行き先を。
そして彼をサポートする、株式会社GO代表の三浦崇宏さん(34)と、株式会社三越伊勢丹ホールディングス鈴木康之さん(47)に、その旅路の課題と乗り越え方をうかがった。
「家業なんて、なくなればいいと思っていた」
「輪島キリモト」は滉平さんで8代目。大変な重みだと思うのですが、家業を継ぐことに抵抗はなかったんでしょうか?
実はぼく、大学に入るまでは家業を継ぐ気が全くなかったんです。むしろなくなればいいと思っていました。
なんと、それはびっくりです。
子供の頃から生活的にも、家族間のコミュニケーション的にもすごくしんどいことが多かったんです。特にバブル崩壊後は大変でした。父は直接お客様に会うため全国を飛び回っていて全然家にいないし、それをカバーしようと副代表のようなポジションになり四苦八苦する母も見ていました。職人さんに給料を払うために、父が自分の給料を削減する月もありましたね。あと、父と祖父がいろんな議論を食卓でするんです。しかも、みんなでご飯を食べている時に。そういう時は「今日はお父さんとお祖父ちゃんが話し合いをするから、子供は喋っちゃだめよ」って母に言われたりして。
そんな食卓、嫌ですね〜。
食事が全然美味しくないですよ(笑)。そんな風だったので、会社さえなければ、家族の愛だけで結束できるのにと思っていました。
伝統工芸っていいお値段のものが多いから、さぞかし儲けていらっしゃるんだろうと思っていました。
そんなことは全くもってないですね。
父の新しい挑戦で、地域では注視される立場に
お父さんとお祖父さんは、あまり仲が良くなかったんですか?
仲が悪かったというわけではありませんが、まだ祖父が代表をやっている時代、父と祖父は経営方針をめぐってよく衝突していました。輪島塗の特徴のひとつに「徹底した分業」があるんです。木地を作る工房があって、漆を塗る工房があって、絵を描く工房があって、みたいな。
ひとつの場所で全部の作業をしているんじゃないんですね!
桐本家は、五代目が昭和初期に漆器業から木地業に転業し、輪島塗の下支えをする役割を担っていたんです。だから、木地づくりだけやってればいいし、もっと言うとそれ以上はやっちゃだめっていうルールがあるんですけど……父が塗り師を仲間にして、仕上げまで輪島キリモトだけでできる体制をつくっちゃったんです。
まさに掟破りですね。
それまでは木地や漆塗り、蒔絵などの作り手がB to C の商売を手掛けることは無かったので、新しい仕組みを作ったと言えます。父は輪島市内の20~60代の仲間と一緒に漆専門ギャラリーをつくってしまったんです。
なんだか怖いことが起きそう……。
そうですね。ギャラリーを開店させた頃、一貫生産することへの反発と、輪島漆器産地の売上げ減少の加速化も加わり、木地の売上げが徐々に45%減りました。同業の漆器屋さんからは「なぜ、漆器を作るの? 木地だけではだめなの?」と言われたそうです。
怖い! これ、書いちゃっていい話なんですか?
大丈夫ですよ(笑)。もう、批判されることは無くなってきましたから。
どうしてお父さんはそうまでして、 B to Cにこだわったんでしょうか?
危機感があったんだと思います。当時、キリモトの売り上げは木地が100%で、それだけで食べていける状態ではありましたが、売上高はずっと落ちていました。なぜなら、輪島塗全体の売上が、静かに落ちている状態だったんです。父としては、注文ありきの商売から脱却し、商品をプロデュースして、売る場所を自分で見つけていかないと輪島塗全体がダメになると考えた末の行動でした。
20年で三越にルイ・ヴィトン、とらやにも知られた存在に
そこから20年経って、どんな変化が起きましたか?
おかげさまで、今では父も近所を堂々と歩けるようになりました。輪島塗っていうとこういうもののイメージがあると思うんですけど……。
ありますね。
うちは、20年前の父の「掟破り」のときから、こういうざらざらした質感の、珪藻土を使った擦れに強い加工のものも取り扱っているんですよ。これも、漆塗りなんです。「蒔地(まきじ)技法」っていいます。
全然違いますね。なんか、こちらの方が普段使いしやすそう。
そうなんです! 地域の組合の中で、ずっと前者のつるっとしたものだけが「輪島塗」だったんですが、ここ数年、輪島キリモト独自の蒔地技法をまねる工房や作り手が出てきていて。
お父さんが開拓した道を、みんなが歩きはじめたんですね。
父がはじめたことが、「伝統と革新のバランス」という点で徐々に評価していただけるようになったんです。今では、三越さんに店を出したり、とらやさんで扱っていただけたり、ルイ・ヴィトンさんにお声がけいただいたりするようになりました。NHKの朝ドラ『まれ』でも、山崎賢人さんと土屋太鳳さんのなれそめのエピソードとして、うちの漆器の話を使っていただきました。
めちゃくちゃ順調ですね。「この調子でがんばります」ってインタビューを終わりにしてもいい気がします。
いや、全然そんなことないんですよ。まだうちが「あきらめてない」ってだけで、周りはどんどん、会社を畳んでいます。実際、この20年で輪島塗全体の生産額は4分の1以下になっていて、うちも今は、祖父の代でできた借金をコツコツ返している段階ですね。
受験で上京していたら、東日本大震災が発生
まだまだ問題が山積みとおっしゃいましたが、そんな状態にもかかわらず家業を継ぐ気になったのには、何かきっかけがあったんでしょうか?
東日本大震災です。実家は石川にあるので直接被害に遭っていないのですが、たまたまぼくがその年大学受験で、ちょうど地震が起きたとき、東京に滞在していました。
それは大変でしたね。
ぼくは、試験が中止になって浪人が決まりました。また、家業の方は、父が東京のお店に張り付いてもまったくものが売れない期間が1、2ヶ月続き、危機的状況に陥りしました。何もかも予定外で、ぼくはこれからどう生きていくんだろう?ということを考えざるを得ない状況になったんです。このピンチに向き合うにつれ、家族が一丸となっていきました。ぜんぜん儲からないし大変なのに、父も祖父も、漆を続けることしか考えてないんですよね。なんなんだこれと思って。そういう状況を目の前にしてやっと、輪島キリモトがあったから、血がつながって、自分が生まれたんだ。この長い何千年もの歴史の中で漆っていう存在があったからこそ、家族が繋がってきたしぼくがここにいるんだな、ということを強く認識しました。
それで、「継ごう」と?
はい。ぼく、高校まで理系だったんですけど、マーケティングの勉強ができる学部に志望を切り替えて浪人生活を送り、翌春、大学に入学しました。
「プロレスしか知らないやつは、プロレスについて何も知らない」
マーケティングをちょっとかじったうえで改めて考えてみると、漆のよさ、輪島塗のよさって、全然伝わっていないんですよ。なんでそうなっているかというと、(昔は)何もしなくても「高くていいもの」として売れたから。あるときそれに気づいて、伝える力をつけたいなと思ったんですね。単純ですよね(笑)。伝えるプロになるなら代理店だろうと思って、就活のとき博報堂の説明会に行ったんです。学生が何百人も来ているような、大きな説明会でした。そこで当時博報堂に在籍されていた三浦さんが「プロレスしか知らないやつは、プロレスについて何も知らない」という話をされていたのがすごく印象的で。
『週刊プロレス』元編集長・ターザン山本さんの名言ですね。それを引用して、「広告マニアは要りません」って話をしました。広告の研究なんかしている暇があったら、恋愛とかスポーツとかをして、どういうときに人が悲しい気持ちになるか、あるいはテンションが上がるか知っているやつに博報堂へ来て欲しいって話を。
それを聞いて、自分が「輪島塗が〜」って言ってるのがすごく恥ずかしくなったんです。このままじゃ全然ダメだと。三浦さんみたいなことを言う人は他にいなかったので、友人づてでOB訪問の機会をつくってもらいました。喫茶店のルノアールで、1時間だけ時間をもらって。
そこで、オレが酷いことを言ったんだよね?(笑)
いや、今思えば当然なんですけど、「輪島塗はこんな伝統があって〜」って話を必死でするぼくに、「桐本くんちょっと待って。輪島塗の価値がまったくわからないわ」と。そう言われて、ぼくは何の説明もできなかったんですよ。色々喋ってるんですけど、ひと言で言えば「伝統があるからいい」「いいものだからいい」みたいなことしか言えてなくて。さらに「代理店入って学んでからとか言ってないで、やりたいことがあるなら今やれよ」って言われて、半べそで帰るみたいな。
大人になってからもいじめられて、かわいそう……。
アドバイスです!
いや、それが本当にありがたくて。おっしゃる通りだと思って、まず就活をやめました。その上で、漆の価値を探究するために『トビタテ!留学JAPAN 』というプログラムに応募し、1年間パリに行くことにしたんです。
そのプログラムは、どんなものだったんでしょうか?
文部科学省が官民協働で主催する、日本の留学生を倍増させようというものです。支援金を日本のグローバル企業等からから募って、文科省が大学と連携して学生に分配。学生側は独自で計画した留学プランを実行し、力をつけて帰って日本に還元しましょうというものですね。
何も知らないパリの人にも、漆は売れた!
一気に動きましたね! でも、どうして海外だったんでしょうか?
本当に物質として「この物体に価値があるんだ」ってことを、なんの前知識のない人にも伝えられるようになりたかったんです。五感のどれかを切り口にしてやっていけば、きっとファンになってくれる人がいるはずだと。地球上でいちばんセンスのいい人たちが集まる場所はパリだと思って、1年間向こうに行くことを決めました。
代理店の時といい、いちばんいい場所がどこかを見極めて、そこに飛び込んでいく姿勢がすばらしいですね。輪島塗、パリでは売れましたか?
それが、売れたんですよ。現地の方は漆についてご存じないので、当然「輪島塗です」と言っても誰も買ってくれません。日本の縄文時代から続くトラディショナルな技術だということや、「漆は、実は水との相性がすごくよくて……」といった、輪島塗とは何かの前に、漆とは何かという科学的な話をまずさせてもらうことで、ひとつずつ売れていきました。「伝統工芸だからいい!」と言ってた自分とは全然違うコミュニケーションをお客さんとできて、しかも結果が出たことで、大きなヒントを得られたんです。パリでの成果を踏まえ、漆の価値を伝える活動を、もう一度日本でやってみたい。そういう思いをFacebookで発信していたら、三浦さんが「久しぶり! 何か一緒にできるかもしれないからオフィスにおいでよ。オレ独立したから!」と連絡をくださったんです。
2年半ぶりに会った桐本さんには、どんな変化がありましたか?
なんか、太くて黒い服を着るようになっていましたね。最初に会ったときは冴えないスーツ姿だったのが、「ヨウジヤマモト」みたいな服を着るようになっていて、パリは人を変えるなと思いました。
あはは……。
それは冗談として、すごく良くなったなと思いました。パリに行く前は、「自分と輪島塗の関わり方がわからなくなってしまって……」みたいなことを言ってたんですけど、正直、そんなのどうでもいいじゃないですか? いいからやれよと。桐本くんが覚悟決めるかどうかなので。決めたんなら力は貸すしっていう。そこの迷いは、だいぶ晴れた感じでしたね。まあ、まだ完全になくなってはいないですけど。いまだに「父にめっちゃ怒られてすごく凹んでます」みたいなLINEが来たり。ほんとどうでもいいなと思いつつ「がんばろうな」って返しますけど。
あはははは(笑)。
漆は、人間の肌に近い質感を持つ素材
そのとき、彼がまさにパリでつかんできた言葉として「漆は乾燥して乾く時に、水を含んで吸収するから、人間の肌に近い質感なんです」って話をしてくれたんです。それがすごく面白いなと思って、本格的にチームを組んで、今回の「IKI」のシリーズに辿りつきました。
普段使いの漆という感じで、すごくいいですよね! このプロダクトについて、桐本さんとお父さんはどういう体制で関わっていらっしゃるんでしょうか?
実は、父と一緒につくっています。プロダクトデザインと輪島の職人さんたちの采配に関しては、父がやってくれていて。
こうしてものをつくるとき、コンセプトメイクをするプロデュースチームと、実際にものをつくるプロダクトチームが必要になります。コンセプトメイクのほうは、桐本くんを旗振り役に、ぼくと徳野(TBWA\HAKUHODO 徳野佑樹)という素晴らしいアートディレクター、そして井上(QUANTUM 井上裕太)というこれまた優秀な人間がいる状態です。で、プロダクトチームのリーダーとしてお父様が入ってくださっています。
この体制も含め、父は今回のプロジェクトにすごく感動しています。「オレがこれまでの人生で会うことのなかった人たちと仕事ができている。それがうれしい」と。三浦さん、徳野さん、井上さんのおかげで、ちょっとだけ、親孝行が出来ています。
実は「日本一の学生」だった桐本さん
伊勢丹さんとのご縁はどのようなものだったのでしょうか?
それも、パリなんです。『トビタテ!留学JAPAN 』は協力企業からお金を集めて運営されているのですが、ちょうぼくの留学が決まったタイミングで三越伊勢丹ホールディングスさんが出資を決められていました。なので帰国後、文科省の方々と一緒に、三越伊勢丹さんへ成果報告に行ったんです。そのとき、オーディエンスのひとりとして話を聞いてくださっていたのが今回お世話になっている鈴木さんでした。
そうです。それ以前からお父様とは顔見知りでしたし、息子さんのことも知っていたのですが、『トビタテ!留学JAPAN 』で最優秀賞を取られているとはつゆ知らずで。
え!? 最優秀賞だったんですか? 日本一?
そんな大袈裟なものではないのですが、一応、いただきました。
それも含めて、いろんな条件が見事にそろったんです。かなりさかのぼったお話になりますが、まず2017年の11月に、伊勢丹新宿本店のリビングフロアで「漆ノ道」というフェアをやったんですね。「ハレの日だけじゃない漆の世界」というテーマで。これが実は、漆が売りづらいという店頭の声から来た企画で……。漆は基本、赤と黒しかないんですよ。なので、ハレの日のものであるっていう認識がすごく強いんです。それをどうにかくつがえせないかとはじめたのが「漆ノ道」でした。ありがたいことにこれが好評で、こんな使い方ができるとは知らなかったという発見とともに買ってくださった方がたくさんいたんです。われわれとしては当然、「漆でもっと仕掛けたい!」となりますよね。一緒に新しいことにチャレンジできそうなところはないかなと探していたときに、注目したのがキリモトさんでした。
注視していたら、パリ帰りの息子さんが突然目の前に現れたんですね。すごい話。
私も、びっくりしました。もう言い尽くされた話ですが、今っていいものをつくっただけ、並べただけでは買っていただけないんです。そこに至るまでのストーリーだったり、その先の使い方だったりも含めて提案しないといけません。そういう意味で、キリモトさんは抜群でしたし、お話を頂いたタイミングもばっちりでした。
実は、「IKI」の構想を固めている最中から三浦さんとは「伊勢丹さんでお披露目できたら最高だね」という話をしていたんです。まさか本当に叶うとは思っていなくて、すごく光栄に思っています。
若いうちから「いいもの」を買う意味
例えばこの「IKI」のコップ、3万円近くしますよね。正直すごく高いなと思うのですが、今、ぼくのようなアラサーの人間が、輪島塗を買う意味ってどういうところにあると思われますか?
「丁寧におもてなしをするための第一歩」だと思います。手で持って食べる食器って、世界的に見ても和食器だけなんですよ。洋食器と和食器の違いは、手で持つか持たないかなんです。お椀に手を添える、お箸を置く、といった「お行儀」が、若い世代にもちゃんと伝わってるのかなと。
輪島キリモトをはじめ、こうして和食器を買っていただくことは、まず自分を丁寧に扱うことにつながると思うんです。丁寧に暮らして、丁寧におもてなしする。そのための第一歩に和食器がなれれば、うれしいですね。
若いうちにいいものを買って、使って、一緒に暮らしていくことはすごく豊かなことだと思います。今ってモノもコンテンツも溢れていて、どれがいいのか悪いのか自分で判断するのがすごく難しい時代ですよね。ただ、「いいもの」をひとつ知っていれば、それが基準になってまた次の「いいもの」に出会えるはずなので。ぼくがいま34歳なんですけど、より若い年齢で「IKI」と出会えた人がうらやましいなと素直に思います。
どちらも説得力がありますね……。桐本さんはいかがでしょうか?
素材自体が水分を吸ったり吐いたり、呼吸しているんですよ。色も質感もどんどん馴染んでいきます。革製品のように使えば使うほど愛着が湧いてくる製品なので、一緒に暮らすパートナーを迎え入れるつもりで、ぜひ一度、手に取っていただきたいです。同時に僕たちは、漆製品がみなさんの手に触れる機会を増やしていきたいと思います。
そうです。まずは一度でいいから使って頂かないと。うちも引き続き、協力させてください。
ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします!