コラム

非行少年、中卒…人生ゼロからやり直せる“奇跡”の塾「フジゼミ」とは?

人生をゼロからやり直せる「奇跡」の塾があるーー。

人々からそう評されるのが、広島県福山市に校舎を構える「フジゼミ」だ。2004年に設立されたフジゼミには非行少年や学年最下位レベル、中卒生も多く通うが、生徒たちはみな自らの目標を見つけ、大学に進学したり資格を取得するなど、道を切り拓いている。

塾長の藤岡克義さんがフジゼミを立ち上げた背景は「ニートの同級生を助けたかったから」。自身が非行少年から大学進学し、大手ゼネコンに就職した経験を伝えたかったのだという。

「始めるのが遅くても、やり直せばいいじゃないですか」と藤岡さんは語る。事業の背景にある彼の原体験から、キャバ嬢、暴走族、不良少年を抱えてスタートしたフジゼミの歩み、そしてこれからの日本が目指すべき教育システムまで話をうかがった。

プロフィール
藤岡克義(ふじおか・かつよし)
高校を1ヶ月で中退後、単身東京に出て酒類販売会社に住み込みで勤務。16歳の時に事故で右目の視力を失い、1年遅れで入学した二度目の高校生活も半年で中退。以後も様々な職業に従事したのち、二十歳を前にして大検受験と大学進学を決意。

近所にある呉服店店主の元で、英語は「This is a pen.」から、国語は小学四年用ドリルから教わり、1年後に國學院大学経済学部に進学。卒業後、株式会社大林組に入社。3年間の勤務を経て、2004年に姉と二人でフジゼミを設立。

“どうしようもない10代”を覆す。呉服屋のおっちゃんと勉強し、不良少年から難関大学に合格

現代社会において、不登校、勉強が苦手、非行などのさまざまな理由で学校に行くことを辞める子供たちは少なくない。

彼らは一度レールを踏み外すことで、学校はおろか社会からも取り残されてしまう。しかし藤岡さんは「意志さえあれば、フジゼミは年齢や経歴、学力に関係なく誰でも受け入れる」と語る。

教鞭をとる藤岡さんも、高校を1か月で中退するなど一度は「普通の道」から外れた非行少年の一人だった。
しかし、とある出来事をきっかけに英語は「This is a pen.」、国語は小学四年用ドリルから勉強をやり直し、国学院大学に進学。その後は大手ゼネコンに就職するなど、“どうしようもなかった10代”と決別している。


2年連続でフジテレビのドキュメンタリー「ザ・ノンフィクション」で特集されるなど、フジゼミの取り組みは全国から注目を集めている(画像はフジゼミHPより)

自身の経験を基に藤岡さんが投げかけるのは、「敷かれたレールを降りたら最後」といういまの教育システムへの疑問と、「回り道も悪くない」「“普通の子”にならなくてもいい」「大切なのは自分で道を決めること」などのメッセージだ。

藤岡

高校にも通わずふらふらとしていて、本当にどうしようもない10代を過ごしていました。結果的にはゲーム喫茶の雇われ店長になり収入は安定していましたが、先々の将来を考えるだけの頭を持ち合わせてはいませんでしたね。そもそも高校を2回も辞めているので、「進学する」という選択肢が思い浮かぶこともありません。当時の私は、なんでもない最終学歴が中卒の馬鹿です。

長谷川

そこからなぜ勉強を始め、大学に進学されたのでしょうか?

藤岡

職場のゲーム喫茶に、小学校の同級生が遊びにきてくれたんですね。一通り昔話に花を咲かせたあと「最近何してんだ?」と聞いたところ、「大学に行っている」と。彼は小学校の頃、けしてデキのいいやつではありませんでした。そんなやつでも大学に行けるのかと衝撃を受けましたね。「どれくらい勉強した?」と尋ねると「辞書が真っ黒になるまですっげー勉強した」と言うんです。どうにも気になって、そのまま「辞書を見せてくれ」と彼の家に押しかけました。すると本当にボロボロで、真っ黒。本気で勉強した跡が残っていて、「馬鹿でも勉強すれば大学に行ける」と思ったんです。

藤岡

それまではまったく無関係の世界だった「勉強」が、急に自分の選択肢の一つに加わりました。そのときに初めて将来のことを真剣に考えたんです。そこで仕事を辞め、大学進学を目指すことにしました。

長谷川

とはいえ収入を捨てることも、未経験の勉強に打ち込むのも相当な覚悟が必要ですよね。

藤岡

勉強しようと思っても、「勉強ってなんだ?」くらいからのスタートなので(笑)。そこで、先ほどの同級生に勉強を教えた近所の呉服屋のおっちゃんを訪ねました。「本気でやるなら教えてやる。でも、2年かかるぞ?」と言われましたが、「2年間この人に付いていけば大学生になれる」と考えたら、苦痛ではなかったですね。

長谷川

ゼロからの勉強で心が折れることはありませんでしたか?

藤岡

当時も今でいう『ビリギャル』のような作品がいくつかあり、それらを観て自分を鼓舞しました。血尿が出るまで勉強したり、コンパスで太ももを刺して眠気と戦う…そんな世界観だったと記憶していますが、自分自身の姿を照らし合わせたんです。これまでどうしようもない人生を歩んできたからこそ、努力で自分を変えたいと思っていました。大学進学を目指すにあたり、まずは高卒資格をとらなければいけません。当時、試験は年に1度しかなかったので、3年計画で勉強を始めました。1年間で3、4科目合格し、そのペースで合格を目指していましたが、最初の年で11科目中10科目受かったんです。結果、大学には2年間で合格することができました。

ニートの同級生を見て、出世街道を捨てる。「今度は、俺がお前らを変えてやる番だ」

長谷川

晴れて大学生になれたわけですが、学生生活はどうでしたか?

藤岡

正直、あまり面白くなかったんです。「高卒資格を取得して大学に入学した」「もともとゲーム喫茶の店長だった」など突っ込みどころが多かったので、最初はちやほやされましたよ。「山に連れて行かれてボコボコにされた」など、やんちゃ時代のエピソードも面白がってもらえました。でも、そんな環境もいずれ飽きちゃうんですよね。

長谷川

飽きてしまう、とは。

藤岡

当時の大学生なんて、やることといえば飲み会と麻雀です。代わり映えしない毎日に嫌気がさし、「自分はなんのために大学に進学したんだ」と思い詰めることもありました。そこで、外の世界に目を向けてみようとネットでいろいろと調べたところ、“本気で勉強したい学生が集まるインカレのゼミ”を見つけたんです。東大、早稲田、慶應…と名門大学生が在籍していることを知り、興味が湧きました。説明会に足を運ぶと、自分と他の学生の差に唖然としたんです。同年代の人たちがスーツをビシッと着こなして自分の将来を語っている。「将来はアメリカ大統領になりたいが、アメリカ国籍がないので日本の総理大臣になります」とか真顔で言って。「何を言っているんだ」と思いましたが、そこでまた意識が変わりました。

長谷川

では、学生時代もかなり真面目に勉強に打ち込んでいたということでしょうか?

藤岡

もう、大真面目です。私はゼミのなかでも「経済部会」に所属していて、大企業の会長や有名大学の教授を招いた講演会を主催するなどしていました。

長谷川

そうした経験を踏まえ、ゼネコンに就職されたわけですね。中卒時代の生活に比べれば、大逆転と呼んでもおかしくないキャリアを手にされていると思います。なのになぜ、会社を辞めて独立されたのでしょうか。

藤岡

おっしゃる通り、やんちゃしていた10代の頃には想像できないような人生を手にしました。1年目から採用面接官を任されていましたし、いわゆる年功序列でこれから給料も役職も上がっていくことが約束されていたんです。

藤岡

とはいえ、そうした人生が自分にとって正解かどうかはまた別の話です。就職して2年目に、地元の祭りの時期に合わせて帰省したときのこと。昔からの仲間と飲み会を開くと、兄弟分の付き合いをしていたメンバーがニートだったり、学校を中退してフリーターをしていたり、悲惨な状況になっていたんです。そのときに考えたんですよ。「自分のやるべきことは、サラリーマンとして出世を目指すことではないんじゃないか?」と。

長谷川

自分が得た成功体験を、彼らに伝えていくべきではないかと思ったわけですね。

藤岡

はい。その日から1年以上悩んだ末に、ゼネコンを退職してフジゼミを立ち上げました。

キャバ嬢、暴走族、不良少年、なんでも来い。これからも、再スタートの選択肢でありたい

長谷川

フジゼミの立ち上げも、勉強と同様、またゼロからのスタートですよね。最初の集客はどのようにして行ったのでしょうか?

藤岡

まず9万円の3LDKアパートを借り、自分自身講師としての勉強をしました。それと同時に、中卒だった自分の同級生たちに「大検を取れ」と声をかけたんです。男性たちは仕事があるので興味がなかったようですが、女性たちは関心を示してくれました。16歳から水商売を始め、結婚と離婚を経験。これから子どもを育てていかないといけないのに、先が見えない……なんて人が多かった。

長谷川

最初は高校生向けの塾というより、大人向けに始めたわけですね。

藤岡

最初は同級生3人のサポートをしていましたが、取り組みを地元のラジオに取り上げていただいて。その放送を聴いて、京都の暴走族の少年と名古屋のヤンキー少年がやってきました。年齢もバックグランドも異なる5人の生徒で塾が始まったわけです。想いに突き動かされて始めた事業なので、当時は「生きていけさえすれば、10年くらいは給料はいらない」と思っていました。人に教えた経験もないし、教員免許も持っていないし、塾に通った経験すらない。たまたま呉服屋のおっちゃんに出会って人生が変わったので、まずはその恩送りがしたかったんです。売上も気にならなかったので、広告宣伝もせず暇さえあれば教材をつくっていました。

長谷川

現在も事業を拡大せず、福山だけで塾を展開されていますが、今でもそうした思いがあるのでしょうか?

藤岡

もちろん事業を拡大してもいいとは思っていますが、何より地元への感謝が大きいので、まずは福山で頑張ろうと思っています。拠点を増やすよりかは、もっと受け入れ体制を大きくしていきたい。それくらい思い入れのある場所なんです。

長谷川

福山以外からも生徒が来ることはあるんですか?

藤岡

生徒は北海道から沖縄まで、全国各地から来てくれています。より多くの方々を受け入れたいと考えているので、地元の方々の協力のもと、食事付きの単身マンションやワンルームのアパートなど安価な物件も紹介しています。現在は中高生が多いですが、自分より20歳以上も年上の生徒を持つことも少なくありません。もうどんな生徒さんが来ても驚かないですね。初めて持った生徒が28歳のシングルマザーで、子供を食べさせていくために看護師になりたいと塾に通ってくれていたのですが、かけ算すら分からないような方でした。でも、猛烈に勉強して大検を取得し、今では看護師として立派に働いています。

藤岡

大事なことは、興味を持つことです。猛烈なモチベーションがある必要はありません。もっと言えば、こちらから「勉強しなさい」とアプローチしなくてもいいんです。興味さえあれば勝手に勉強するようになるので、やらせるのではなく、背中を押してあげるタイミングが重要だと思っています。たとえどんな過去があっても、時間が解決する。18歳までは「学校に行っていたか、行っていないか」くらいしか人間に差はありません。ただ、18歳を過ぎて社会に出ると、学歴のせいで世界が狭くなったり、他の人との差を感じたりする。そういったときに初めて、目標を叶えるために勉強が必要だと気づくんです。ただ、始めるのが遅くても、やり直せばいいじゃないですか。僕だってそうだったわけですから。

長谷川

家庭の文化資本は非常に重要だと思っていて、僕も家族に大卒者がおらず、兄貴も不良でした。なので、そもそも勉強する習慣がなかったんです。「勉強って、誰でも普通にしているんだ」と大学に進学してから知りました。

藤岡

究極的に言うと、私は日本の教育システムはおかしいと思っています。「とりあえず大学に進学する」という風潮があるので、中学高校で怠惰な生活を送ってきた学生でも、目標がないまま大学に進学させてしまうのです。するとどうでしょう、大学を卒業した途端に「さあ、ここからはご自由にどうぞ」と突き放す。アメリカなどはそうですが、高校を出たら社会に出て働き、必要を感じたら大学に行く、そんな空気があってもいいと思うんです。フジゼミは、そうしたときにゼロから学び直すための選択肢の一つでありたいと考えています。不良少年だった自分が大学進学し、大手ゼネコンに就職した後に今では人に教える仕事をしている。その経験を、これからも多くの人に伝えていきたいんです。

区切り線

僕が藤岡先生を最初に知ったのは、大学時代の親友であるK君が他ならぬフジゼミの出身者だったから。今回の取材も、現在は某在京テレビ局で働くK君が紹介してくれました。

中学卒業後、広島で暴走族をしていたK君も20歳を過ぎ、人生の再起を図ります。
無事に大検を取得、そして大学の同じ学部で僕らは出会ったのでした。

「血尿が出るまで」ーー当時を振り返りながら彼がよく言うこの言葉。
今回の藤岡先生の取材中にも聞くことができ、そのイズムを感じ取らずにはいられません。

終始笑顔で取材に対応してくれた藤岡先生ですが、もっとも笑みがこぼれたのは、K君の今の活躍に話が及んだときでした。

前回取材した「ヤンキーインターン」や今回の「フジゼミ」。『BAMP』では今後もさまざまなアプローチで機会格差に挑む方々の勇気溢れる声を届けていきたいです。

写真:山田泰一

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長谷川 リョー

アサシン系編集者。90年、東京。リクルートホールディングスを経て、独立。修士(東京大学 学際情報学)「SENSORS」シニアエディター。WHITE MEDIA顧問。#木曜解放区 出演中。夢は馬主。

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