コラム

「人はひとりでは食べていけない」キッチハイクが提案する『みん食』

おいしいごはんってどういうことだっけ?とふと考えることがある。

ミシュランだ食べログだと、僕らをおいしいごはんへといざなってくれる扉はたくさんある。けれども、どうやらそういうことではないんじゃないかという気がするのだ。

奥さんとケンカして、仲直りしないままに食べた夕食というのは、不思議なほどに決まって味がしない。同じメニューだった1週間前の夜は、たしかにおいしかったはずなのに。

勝利の美酒、山頂での一杯、月見酒に雪見酒……特定のシチュエーションでしか味わえない味というのは、他にもいくらでもある。飲んでいるのは、どれも同じ350ml缶だ。

そのひと皿、その一杯がおいしいかおいしくないかには、どうやら皿やコップの中では完結しない、なにかがあるようなのだ。

おいしいものを食べるか、“おいしく”食べるか

キッチハイクは、「みんなでごはんを食べよう」を合言葉に、料理をつくる人(COOK)と食べる人(HIKER)をつなぐ交流コミュニティサイト。

代表の山本雅也さんは、450日かけて世界を一周、旅先の見知らぬお宅を訪ねてごはんを食べ歩いた経験をもつ。食を通じてさまざまな人たちと交流してきた様子は、著書『キッチハイク!突撃!世界の晩ごはん』(集英社)に収められている。

今回はそんな山本さんと、キッチハイク共同代表の藤崎祥見さんに、おいしいごはんとはなにか、そしてキッチハイクが実現しようとしている世界について聞いた。


藤崎祥見さん(写真左)と、山本雅也さん(写真右)。藤崎さんは以前、Wantedlyでのインタビュー記事が話題になったことも

すずき

山本さんは世界中のお宅にお邪魔してごはんを食べてきたというじゃないですか。きょうはそんな山本さんが考える「おいしいごはん」について聞きたいと思ってまして。

山本

なるほど。それで言うと、まず大前提として、食事というものには二つの側面があると思っていまして。一つは、人間は食べないと死んじゃうので、栄養をとるための行為としての食です。これは現代においては、どんどん合理的に、便利に最適化されていっている流れがありますよね。別に否定するわけじゃないんですけど、とりあえずカロリーを摂取できればいいからファストフード店に行く、とか。足りてない栄養素があったらサプリメントで済ませる、とか。でも、食には栄養摂取とは別にもう一つ、「人とつながるため」っていう側面があるのではないか、と。僕らはこれが、よりおいしく感じるかどうかっていうところに関係してるんじゃないかと考えているんです。

すずき

人とつながるための食?

山本

もちろん、料理自体がおいしいかどうかっていうのもあると思うんですよ。一流のシェフが厳選した素材を使って、完璧な火の入れ具合で、というような。でもその世界って、「おいしさのマッチョイズム」とも言える話で。つまり、際限がないじゃないですか。そのせいで、おいしいものを追い求めていたつもりが、いつのまにか苦しくなってしまうっていう逆説が起こりうると思うんですよね。

すずき

たしかに、ミシュランのシェフがつくる料理とか言われても、僕なんかにはちょっと想像がつかない世界というところがありますね。

山本

日本であればまあ、どこへ行ってもそこそこちゃんとした素材が揃いますけど、例えば東南アジアや中南米の貧しいエリアを歩いていると、そこで並んでいる野菜はもう、しなしななわけですよ。これじゃあ、何をつくってもおいしくないだろう、みたいな。でも、僕がそういう国へ行って見てきた中には、そんな感じの料理であっても、おいしそうに、楽しそうに食べている人たちがたくさんいたんです。だから思うんですよ。大事なのは「おいしい」ものを食べるんじゃなくて、「おいしく」食べるっていう、食べることに向き合う姿勢の問題なんじゃないかって。

すずき

なるほど。

山本

キッチハイクはこの「おいしく」食べるにはどうしたらいいかというところを切り拓こうとしていて。そのど真ん中にあるのが、「みんなで食べる」ことだと伝えていきたいんです。料理をつくる人も食べる人も、お互いに顔が見えていて、一緒に食卓を囲んで交流する。それこそが食事で満たされる、おいしく食べる方法だと考えています。だから僕らは、「おいしく」食べる体験を仕組み化したいんです。


キッチハイクのサイト上には、さまざまなポップアップ(ごはん交流会 / 料理イベント)が掲載されている。参加者 (HIKER) は料理を食べるだけでなく、イベントの主催者 (COOK) からレシピを教わったり、他の参加者 (HIKER) との交流を楽しむこともできる

古来より人は食を通じてつながっていた

すずき

「みんなで食べる」ことの価値に着目したのには、なにかきっかけがあったんですか?

山本

親の教育の影響が大きかったと思うんですけど、10代の頃から「世の中を良くするには、もっと言うと楽しくするにはどうしたらいいか」ってことを考えてきました。特に、「人と人がより早く、より深くつながる方法はないものか」というのは、ずっと考えてきたテーマでして。なかなかその答えは見つからなかったんですけど、ある時たまたま読んだ文化人類学の本に、その答えらしきものが見つかったんですよ。

すずき

どんなことが書いてあったんですか?

山本

地球の歴史上、世界中のどんな民族も、自分のテリトリーに敵が入ってきたら、決まってすることがある。それは自分の家に招き入れて、ごはんを一緒に食べて、友好を深めることだって。盃をかわすとか、タバコを一緒に吸うとかでもいいんですけど。要は、分割不可能なものを共有するところから人と人はつながって、共同体が立ち上がったり、交易が始まったりしていったと書いてあって。「たしかにそうかもしれない」と思ったんですよね。

すずき

なるほど。

山本

でもこれって、現代にあんまりないな、と。ひとりでごはんを食べたり、ファストフードへ行ったり、サプリを摂ったりと、どんどん食が機能的になっていくけれど、「つながるための食」っていうのもあるんじゃないか。みんな忘れているけれど、それも食の重要な側面なんじゃないかと思ったんですよね。だからキッチハイクがやってることって、新しいことをやっているようでいて、実際はとても古めかしいことをやっているんです。

すずき

最近は都会だと「孤食」の問題がクローズアップされたりしますけど、そういう現代だからこそ特別なことに映るものの、人類の歴史から見ればむしろ普通だ、と。

山本

そう。だって考えてみれば、人がひとりで食べられるようになったのなんて、この100年くらいの歴史しかないですからね。本当に昔まで遡れば、みんなで協力しないと狩れないもの、育てられないものというのがあったので、それを調理するのも、当然みんなでやっていたわけで。そういう、そもそもの食のあり方から見れば、牛丼チェーンでひとりで食べるなんてことは、本当に奇跡以外の何物でもないんですよね。

ビッグレールからコミュニティポートフォリオへ

すずき

実際、どんな人がどんな動機でキッチハイクをHIKER利用することが多いんですか?

山本

職業や性別は本当にさまざまなんですけど、一つ特徴的なことがあって。それはHIKER利用者の9割が「おひとりさま」だってことです。たまに2、3人のグループもいるんですけど、ほとんどの人がひとりで来て、「どうも、はじめまして」という。

すずき

それは純粋に食を求めているのか、それともつながりたくて来ているのか、どっちなんですかね?

山本

両方だと思います。入り口はもちろん食です。料理に興味がある、料理をつくっている人に興味があるっていう。でも、自分と興味関心が似ている人とつながれるのって、人生の大きな喜びだったりするじゃないですか。例えば音楽とかでも、ライブハウスに行くと、「ここに来ているやつらは、みんなこのアーティストが好きなんだ」という一体感がある。そこからちょっと仲良くなったりもしたりして。

すずき

わかります。

山本

キッチハイクで起きていることもそれと似ていて。おいしく食べるっていう、ゆるいコミュニティ的なものを求めている人が多いんだろうなというのは感じますね。なんというか、スナックのようなゆるさを……。

すずき

スナックって、夜に飲みに行く、あのスナックですか?

山本

そうです。スナックとかバーの常連同士って、お互いの本名も素性もほとんど知らないけれど、だからこそ気兼ねなく「最近どう?」なんて言い合えるゆるさがあるじゃないですか。最近はみんなソーシャル疲れもしているし、家でも会社でもない、そういうゆるさでつながれるサードプレイスを求めているのかなって。

すずき

たしかに、スナックやバーのあの関係性はいいですよね。そこで「フェイスブック交換しましょう!」とか言われたら興醒めというか。

山本

世の中的にも今、ビッグレールからコミュニティポートフォリオへ、みたいな流れがあって。会社っていう一組織に敷かれたビッグレールに載ってやっていく時代から、いくつかの組織に同時に所属するという時代になってきている。サークルとか社会貢献とか、コミュニティのポートフォリオをいくつも持って過ごしていくっていう、そういうニーズに変わってきているんだろうなっていうのを感じるんです。だからキッチハイクも、そういういくつかあるコミュニティの一つになれたらいいのかなと思ってます。

高まる「消えるもの」としての食の価値

すずき

そういうコミュニティポートフォリオのニーズが高まっている現代において、他のコミュニティにはない食の面白さって、どこにあると思いますか?

山本

一つは先ほどからお話ししているように、食にはそもそもつながりやすいという側面があるということですけど、もう一つ、僕は「消えてしまう」っていうのがいいなと思っていて。

すずき

消えてしまう?

山本

今、音楽業界でも、CDや音源自体はそこまで売れないけれど、ライブやフェスに行く人は増えていると言われるじゃないですか。ああいう「現場でしか体験できないこと」、「瞬間でなくなってしまうこと」、もっと言えば「みんなが集まらないと成立しない瞬間」の価値というのが高まってきているんですよね。食ってまさに食べたらなくなってしまうものだし、そこに集まったからこそわかち合える、コピーできないオンリーワンの体験なので。

すずき

その「消えてしまうことに価値がある」って話、なんだか仏教っぽいですね。共同代表の藤崎さんはもともとお寺の生まれだとお聞きしたんで、ぜひその辺のお話を伺いたいですね。

(ここで共同創業者でCTOの藤崎祥見さんが登場)

藤崎

消えるっていうのとはちょっと違うかもしれないですけど、仏教には「諸行無常」という考え方がありますね。何物も同じような状態のまま時間が過ぎることはないっていう。例えばここに1個のリンゴがあるとして、「20年後にこのリンゴはどうなっていますか?」と聞けば、誰もが「腐って形が変わっている」と答える。じゃあ1年後は? ちょっと色が変わっているかもしれないですよね。じゃあ30分後は? 1分後は? 1秒後は?……と考えていくと、仮に見た目は変わっていないように見えても、必ず何かが変わっている。変わらないものはない、というのが、仏教における「諸行無常」という考え方です。なんですけど、一方で僕は、人類が進化の中で手に入れたものの一つに、永続性みたいなものがあると思っていまして。

すずき

永続性?

藤崎

要は、磁気ディスクとか、ハードディスクとかみたいなもののことです。もちろんあれだって耐用年数は決まっているんですけど、ほぼほぼ人間の一生の間は残りますよね。つまり何が言いたいのかというと、そうやって消えないもの、保存できるものができたことによって、逆により変わるもの、消えるものの価値が出てきているのが今、ということだと思うんですよ。グーグルとかで話題になっている「忘れられる権利」なんていうのは、まさにその顕著な例で。今ではすべてが保存されて、調べていくと全部がアーカイブされている。だからこそ、一定期間経ったら消えるとか、そもそもアーカイブされないとか、そういうところに人間が価値を見出したということだと思うので、そこが面白いなって思いますよね。

人間はエピソードによって記憶を反芻する


取材当日、オフィスの「まかない」メニューだった「トマトとツナのそうめん」。凍らせてシャーベット状にしたトマトがアクセントに

すずき

ここまでのお二人のお話で、分割不可能、かつ食べると1回で消えてしまう「食」というものには、栄養摂取とは別に「人と人とをつなぐ」という側面があるということ。そうやって「食」を通じて人とゆるくつながることを楽しいと感じる人が増えているということがわかった気がします。でも、ちょっと一つ引っかかっていることがありまして。

山本

なんでしょう?

すずき

そういう場を共有して食べることはたしかに楽しいけれど、それは本当に「おいしく」食べていることなんだろうかってことなんです。ワイワイ楽しくやっていたら、気付いたら目の前の皿は空っぽになっていて、何を食べていたのかも忘れていた、なんてことはないんですかね?

藤崎

なるほど。その話には人間の「記憶」が関係していると思うんですけど、人間の記憶ってすごく面白くって。記憶を反芻する時に、人間はエピソードやストーリーで反芻することを好むんですよ。

すずき

どういうことですか?

藤崎

例えば、めちゃくちゃ楽しい旅行なんだけど、それを思い出すための写真のないAパターンと、それよりは楽しくないんだけど、写真であとで振り返れるBパターンという、二つの旅行プランがあったとして、「どっちに行きたいですか?」と聞くと、多くの人は後者を選ぶという研究結果があるんです。食に関しても、これだけ満たされた現代においては、多くの人が求めるのって、ストーリーだとか経験だと思うんですよね。「食べたもの」は思い出せなくても、「食べたこと」はいつまで経っても覚えているというか。そう考えたら、ひとりでおいしいものを食べるよりも、それよりは味で劣っていたとしても、みんなで何かを食べた方が記憶に残りやすいだろうから、そういうことが人の充足感とか、幸せな暮らしの要素になるんじゃないかなって思うんですよね。

すずき

うーん、たしかにひとりで何かおいしいものを食べたという時にしても、結局は「こんなおいしいものを食べた」というストーリーを誰かに話すことによって充足感を感じているような気もするし……。

藤崎

旅行でも、計画を立てたり、あとで家族や友達に話したりという旅の前後が楽しかったりするじゃないですか。料理もそれと似ていて、下準備とか、振り返って人に話す時間も楽しいんですよ。だから、食べる前後も含めたキッチハイク、というのはありますね。

山本

そのための機能として、例えば、今年に入ってから写真を投稿できる「ギャラリー機能」を追加したんですけど、もう累計で1万枚以上も投稿されていて。人気のあるCOOKさんだと、HIKERの人たちがこぞって700枚以上の写真をアップしてたりもします。そういうところからも、記憶の共有というか、思い出すっていうところがいかに求められているかというのを感じますよね。

すずき

この間、東北大学大学院で「うまみ」の研究をしているという先生の講演を聞く機会があったんですけど、その先生が言っていたのも、味覚は総合感覚だ、ということで。味というのは決して味蕾細胞で感じているんじゃなくて、嗅覚や視覚はもちろん、最終的には記憶や感情も統合されて、脳で感じるものだと言うんです。その話とお二人のお話を合わせて考えたら、僕らが純粋に皿の中の料理の味だと思っていたものも、もしかしたらその場の雰囲気とか、一緒にいた人との会話とか、そういう諸々を統合して味わっていたのかもしれないな、という気がします。

毎日いっしょにお昼を食べる心地よさ


ランチの時間になり、食卓に集まって来たキッチハイクのメンバーたち。ランチの調理や片付けは当番制で行われている

すずき

今日も取材前に社員の皆さんと一緒においしいまかないをいただいたんですけど、キッチハイクさんはオフィス内に立派なキッチンがあって。毎日お昼になると全員が手を止めて、みんなで一緒にお昼を食べているんですよね?

山本

そうです。当番制で、「みんなで作ってみんなで食べる」というのを毎日実践してます。これがとっても楽しいんですよ。

すずき

日によってはもうちょっと仕事していたいのになあ、と思うこととかないんですか?

山本

差し迫った仕事があるという時もあるし、ぱっと見、非合理的に映ることもあるかもしれないですけど、それを差し置いても、こういう場を持つことには意味があると思っていて。お互いのことがよくわかったり、チームのリズムが作れたり、仕事に限らずいろいろな話ができるというのは、全体としてみるとすごくいいことなんですよね。

すずき

たしかに、取材前に少しでもお話できたのはよかったな、と僕も思いました。

山本

世の中の多くの会社は、そうやってお互いを知るためにボーリング大会をやったりとか、カラオケに行ったり、飲み会をやったりするわけじゃないですか。でもキッチハイクでは、必ずメンバー全員で囲むまかないにすべて包括されています。毎日のまかないとコーヒータイムでいろいろな話をできるのは、非常にいい文化だなって思います。

藤崎

街で見かける大工さんたちだって、みんな一緒にお昼食べてるじゃないですか。オリンピックの優勝チームだって、いまだかつて一緒にごはんを食べてなかったチームなんてないでしょう。チーム一丸となって何かをやろうとしている時に、みんなで食卓を丸く囲んで食べるってのは、人間の習性なんだと思います。

山本

それに、僕ら自身がやっていて心地のいいことこそが未来だと信じてるので、まずは僕ら自身が実験しているという感覚もあります。そうやって僕らが日々実践して心地いいと感じていることを、誰もが再現できるように仕組み化して、よりたくさんの人に体験してもらう。体を張った実験なのかもしれませんね。

藤崎

そう。人類の未来がかかった実験台だよね。

山本

「孤食」の時代に対するカウンターとして、キッチハイクは「みんなでごはんを食べよう」、略して「みん食」の食文化を本気で普及させようと思ってやっています。世界が良くなるためだったら、喜んで実験台になりますよね。

【関連サイト】
みんなの食卓|http://www.kitchhike-minshoku.com/
みん食白書|https://kitchhike.com/minshoku_reports
民食とは|https://blog.kitchhike.com/what-is-minshoku/
KitchHike|https://kitchhike.com/

すずきあつお

元新聞記者で、現在はフリーのライター/編集者。プロレスとプロレス的なものが好きです。

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