近年、複業やパラレルキャリアといった生き方が一般的になってきている。
会社員に軸足を置きながら、NPOに所属したり、農業に汗を流したり……音楽や芸術といった創作活動に勤しんでいる人もいるだろう。
しかし、伝統工芸品の職人とシンガーとしての音楽活動を両立させている例は珍しいのではないだろうか。
彼女の名前は、田村有紀(たむら・ゆうき)。実家である愛知県あま市七宝町の伝統工芸品「七宝焼」の窯元・田村七宝工芸の五代目であると同時に、シンガー「太田ゆうき」としても活動している。
伝統工芸と音楽。一見、まるで無関係な二足のわらじを履きこなす田村さん。
なぜ彼女は前例の少ない道を歩む決意をしたのか。田村さんの葛藤、決断、そして「先駆者になることを恐れない」と語る彼女の生き様にスポットを当ててみたい。
表現力を磨くために進んだ「シンガー」という道
さっそくですが、なぜ伝統工芸と音楽という全く分野の異なる二足のわらじを履くことになったんですか?
時系列だと音楽活動を始めたのが先なんです。きっかけは、大学時代のスカウト。当時、武蔵野美術大学で建築を学んでいました。大学の授業はとても楽しかった。志の高い友達もたくさんできて、本当に楽しく毎日を過ごしていました。
しかし、大学の課題や授業だけでは、せっかく頑張ってつくっても、見てくれるのは教授や同級生に留まってしまう。私はもっとたくさんの人に意見をもらって、PDCAを繰り返したかった。だから、「芸能」という不特定多数の方に見ていただける未知の世界に飛び込む決心をしました。
よく「なんで歌だったの?」って聞かれるんですが、自分でもよくわからないんですよね(笑)。ただ、人様の前に立たせていただけることが私にとってはすごく大きくて。お客さんの顔も見えるし、反応もすぐにわかる。反応をみて、次回また少し変えてみる。表現力を磨くうえでこれ以上の環境はなかったので、ステージに立とうと思いました。
大学へ行きながら音楽活動……相当大変だったのでは?
毎日眠かったですね(笑)。大学が東京のはずれのほうだったんですが、ライブやレッスンは都心で行なわれるので……電車での移動中は立ったまま寝たこともありました(笑)。
ただ、ステージは楽しかったです。持ち時間のうちのセットリストや曲数、MCのタイミングなどはある程度自分の裁量に委ねられていたので、“やらされ感”みたいなものは一切なかった。そういう意味では自己プロデュース力が磨かれたのかもしれません。
ステージに立つうえで大切にしていることとは?
お客さんと喜び、楽しさを共有することですね。
デビュー間もない頃、アイドルイベントに出演したんです。当時はオリジナル曲がなかったから、自分が好きなDREAMS COME TRUEさんの『決戦は金曜日』を歌ったんです。お客さんも好きな曲だと思ったので。ところが、全然ウケなくて……。結局、独りよがりだったんですよね。
その一方で、他のアイドルさんのステージは盛り上がっている。単純な歌唱力の差はあるにせよ、原因はそれだけではないと思って。それからはアイドル以外にも色々なアーティストさんと共演しましたが、すべてのライブをステージ袖から見て研究しました。それこそ睨みつけるように(笑)。
今思うと当然なんですが、「自分が歌いたい曲イコールお客さんが喜んでくれる曲」じゃないんですよね。そして、私自身が楽しまないとお客さんも楽しめない。
お金を払って、時間をかけてライブに足を運んでくれるお客さんが「来てよかった」と思える時間をつくること。そこに自分のやりたいことをうまく重ね、楽しさや喜びを共有すると同時に、自分自身も楽しんでいくことが、私の生存戦略なんだと思います。
「知られないままひっそりと消えていく」なんて耐えられない
その後、シンガーとして作品もリリース。その後、日本各地での年間200本以上のライブなど順調に活動してきた田村さんがなぜ伝統工芸に?
三代目だった祖父が亡くなったんです。
その頃近所を見渡すと、気がついたら町内に100や200もあった七宝焼の窯元も我が家含め8軒になり、皆、自分たちで最後だと言い始めて……。なんだか、すごく悲しかったんですよね。こんなに美しいもの、そして技術が途絶えてしまうのかと。
私は両親がつくる七宝焼はものすごくカッコイイと思っていたし、社会に出て世の中を知ると、実家が伝統工芸品をつくっていることの覚悟を客観的に感じられるようになっていて。
もし世界中の人たちが七宝焼を知って、「もう消えてなくなってもいい」と言ってきたら、時代に淘汰されたと納得します。でも、知られもしないままひっそりと消えていくなんて耐えられないじゃないですか。知ったら絶対に好きになってくれる人はたくさんいる。とにかく七宝焼を知ってもらうきっかけをつくろうと思って、五代目を名乗り始めました。
具体的にはどのようなことを始めたんですか?
Webサイトをつくったり、ネットショップを立ち上げたり、プロモーション用の映像をつくるためにクラウドファンディングをやったり……あとは若い方達に身近に感じていただけるようにジュエリーブランドを立ち上げたりしました。
七宝焼のおもしろさって、計算して美しさを出せること。偶然美がないことだと思うんです。自分の意図や想いみたいなものを作品に反映させていける。まさに宝石で絵を描く、描ける宝石というか。
色もデザインも自由度が高いんです。基本的に一点物で、色彩も豊かで色褪せることもないので、女性へのプレゼントとして購入される男性も多いですよ。もちろん男性がご自身のためにオーダーしてくださることも、ペアジュエリーのオーダーもあります。
手応えはありますか?
そうですね、日用品ではないですし、お値段も安くないですが、日々手応えは感じています。作品を販売するためにひとりで全国を回ることはできないので、ネットショップの存在はかなり大きいですね。むしろネットショップ経由でのご購入される方が多いぐらい。私としても、ネットショップをメインにした販売戦略を立てているほどですから。
二足のわらじを履くようになって、「こんな生活ムリ!」と投げ出したくなったことはないんですか?
全くないですね。七宝焼も音楽も大好きなことですから。いい意味でオンオフの切り替えがないので、自分らしく毎日過ごしています。
ひとつ意識していることがあるとすれば、効率性ですね。たとえば、打ち合わせのときは勝手に自分で議事録を書き始めて、終了とともに参加者全員に共有します。あとから打ち合わせ内容を書きまとめる時間を削減するだけではなく、さらに「言った言わない問題」「あれ?会議でどうなったんだっけ?」というトラブルも起きにくいので。
もちろん打ち合わせは全力で参加し、意見しないと意味がないので全力で臨みますよ。打ち合わせにも参加しながら議事録を書くって一見難しそうですが、頭をフル回転して参加していたら意外とできるようになるんです。
こうやってマルチタスクをこなせるように自分に負荷を与えて努力してみたり、効率を上げるためのリスク管理や時間削減の方法を考えたりはしていますね。何より私、めんどくさがり屋なんです。二度手間は嫌。無駄なことはしたくないじゃないですか。めんどくさいから(笑)。
「誰もやっていない」を恐れない
実際のところ、七宝焼を始めるにあたって、シンガーとしての知名度を利用しようみたいな狙いってあったんですか?
それは全くないですよ(笑)。むしろ批判も覚悟していたくらいですから。というか、肩書きなんて何でもいいと思っていて。
メディアの方からは「窯元五代目 兼 シンガー」として取り上げたいというお話をいただくので、結果としてはよかったのかもしれませんが、自分ではまだまだだと思いますし。
ファンの方は、私が「窯元の五代目になる」と言ったら「新たな売名行為か(笑)?」と驚いていましたが、続けるうちに本気だとわかってくれたみたいで……なかにはクラウドファンディングに支援してくれたり、お母さんに渡すプレゼントを購入してくれたり……。
「表現者の魅力は歌だけじゃないんだね。活動すべて前向きでワクワクするよ」と言ってくれたファンの方もいました。本当にありがたいですね。
最近、シンガーとしての活動はセーブしているとお聞きしましたが……。
今は七宝焼が主軸ですから歌にかける割合は少なくなっていますね。でも、ライブ本数は少なくなっても、ライブは続けていきたいと思っています。「もう来なくていいよ」と言われるまでは頑張りたいですね。
以前、私を拾ってくれた芸能事務所のマネージャー兼社長が、「先駆者であり続けろ」と言ってくれたんです。当時はピンときてなかったけど、少しずつようやくしっくりきている感覚はある。先駆者であることを恐れずに挑戦を続けていくべきだと感じていますね。肩書きなんて何だっていいんです。
最近、同世代の違う工芸をしている女性職人9名と一緒に東海地区若手女性職人グループ『凛九(りんく)』を結成しました。それも新たな挑戦のひとつ。
みんな、個人の活動がメインですが、グループを組むことでできることがありますし、何より訴求力が強い。ありがたいことにたくさんのメディアに取り上げていただいて……「伝統工芸を守る」という共通の目的に立ち向かう仲間もできたし、挑戦してよかったと思います。
田村さんにとって「先駆者であり続ける」とはどういうことなのでしょう?
そうですね……あまり深くは考えていなんですが、やはり、ベストを尽くし続けることでしょうか。
七宝焼職人とシンガーを両立している人なんて地元にはいませんし、新しい意見には反発はつきもの。そういった声って耳に入りやすいし、気にしてしまいがちです。でも、やっぱり現状維持はマイナスだと思っていて。「反発が怖いからこの程度でいいや」という気持ちでは、いつか消えてしまうでしょう。
だから、とにかくできる限りのことをして、自分の想いを貫いていく。次第に私自身も夢中になって、アンチの意見も耳に入らないような無敵状態になれると思うんです。
後々「あのときもっとがんばればよかった」なんて後悔したくないじゃないですか。誰かのためというよりも自分のために、ベストは尽くし続けなければいけないと思っています。
田村さんはなぜそんなに「強い」んですか?
なんでしょう……まぁ、自分の決意や覚悟ぐらい自分で信じてあげたいじゃないですかね。
もちろん努力は欠かせませんが、未知の領域でも進んでいくとたくさんの応援があることに気付くんです。とてもあたたかい声ばかり。私にとっては、むしろアンチの意見も「もりあげてくれてありがとう!」って感じです(笑)。
ちなみに、五代目を名乗ることを知ったご両親はどんな反応でしたか?
喜んだかどうかはわかりません。聞いたことがないので(笑)。でも「好きにやれ」と言ってくれたのはありがたかったですね。四代目の父も健在なので、一緒に五代目としてがんばっています。
もともと私が継がなければ、我が家も、そして七宝焼発祥の地である七宝町の窯元もすべて終わるはずだったので、やってみてダメならあきらめもつくし。重い看板を背負わせられた自覚はないので、いろいろやりやすいですよ。
むしろ、七宝焼は技術や歴史もあり、かっこいいコンテンツ。諦めるのには早すぎます。重い看板どころか、どう世の中に知ってもらおうかを考えるのが楽しくて仕方がない。
お話をうかがっていると、今の田村さんを語るうえでご両親の存在や家庭環境の影響は大きいように感じますね。
確かにそうですね。両親はふたりとも多摩美術大学の油絵科を卒業しているので、描く絵もすごい上手なんですよ。そういう人の絵を見ていたら、自然と上達する。以前、友達から「有紀はサラブレッド」と言われたことがあって当時はピンと来ていなかったけど、今思うとそうなのかもしれませんね(笑)。
家に美術品が転がり、両親は絵がうまく、当たり前のように作品をつくる家庭で育ったので。自分も何かをつくって表現して生きていくものだと思っていましたから。
実は、中学校、高校はうまく馴染めなくて、友達も全然できなかった。でも父親が「友達は人生で3人できればいいほうだ」と言ってくれて気持ちが楽になったのを覚えています。やっぱり両親の存在は大きいですね。
ロールモデルがいなくても、自分が先駆者になれる時代になってきている。あとは恐れずにチャレンジするだけなのかもしれませんね。一歩踏み出せないでいる人たちの背中を押してくれるような力強い言葉、ありがとうございました。
取材のおよそ一週間前のこと。
シンガー「太田ゆうき」を見出し、彼女を一番近くで支えてきたマネージャーであり所属事務所の社長である高峰健人さんが若くしてこの世を去った。
彼女が高峰さんに贈った文章を読むと、互いに信頼し、尊敬し、期待していたことがおのずと見えてくる。「絆」という言葉では言い表せないほど強く確かなつながりだっただろう。
大きな悲しみを乗り越え、前に進む決断をした田村さん。恐れずに先駆者で在り続ける彼女の未来を高峰さんが天国から見守ってくれることを、心から願いたい。
田村七宝工芸
- 1883年より続く七宝焼の窯元・田村七宝工芸の公式オンラインショップ
- https://tamura.buyshop.jp/
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