いわゆる都会と呼ばれる場所に住んでいると、長い間、土に触れていないことに気づいてハッとする。最後に土を触ったのはいつだろう?
毎日食べているお米や野菜は土から生まれてくるのに、スーパーやコンビニで綺麗に陳列されたものたちは、全く土の存在を感じさせない。
「土がないと結局、何もできないんですよね。その土の大切さを、我々の活動を通して少しでも感じてもらえたらいいなって思ってます」
「カッコつけてるみたいですけど」と少し恥ずかしそうに話してくれたのは、「山燕庵(さんえんあん)」の杉原晋一さん。
山燕庵は、2005年に晋一さんの父である正利さんが立ち上げた農業法人だ。東京の出版社で働いていた正利さんが福島に田んぼを借り、平日は東京、週末は福島と二地域を行き来しながらお米作りを始めた。そして2011年の東日本大震災を機に、石川の能登半島にも生産拠点を増設。
その後、東京のリサーチ会社で働いていた晋一さんも会社を辞め、山燕庵へ合流した。現在は甘酒などお米の加工品やネット販売にも力を入れ、デザイン性にも優れた商品を次々と生み出している。
「都会と生産地を繋いで、両者の距離を近くすること」をコンセプトに掲げる山燕庵。都会と田舎の両方を知る杉原さんが考える、これからの農業の役割について聞いた。
震災をきっかけに気付いた、世間の矛盾
お父さんの正利さんは、会社員をしながら農業を始められたのですね。
「定年後は田舎でお米をつくって悠々自適に暮らしていこう」と考えて、福島に畑を借りたそうです。会社員のときから週の半分、福島に行って農業をする生活をしていて、退職した今も東京と福島の二拠点生活を続けています。
東京の仕事を続けながら農業をするのは、かなり思い切った判断のようにも思います。
父の世代はバブルも経験していてイケイケドンドンなので、勢いでやったんだと思います(笑)。僕らの世代からすると、見習うべきところもありますね。
とはいえ父にとって福島は馴染みのない土地で、農業も初心者。地元の農家の先輩に教わりながら、イチから畑を作っていったそうです。畑のある鮫川村では無農薬の「松本農法」を推進していたため、父がさらにアレンジをして山燕庵の自然循環型のお米作りが生まれました。
その後、晋一さんも山燕庵に合流したということですが、もともと農業に興味があったんですか?
父が畑を始めた当初、僕は月に1、2回、遊びにいく程度でした。ただ、小さい頃から東京の実家には家庭菜園が、家の周りには畑が広がる環境だったんです。だから、農業への興味は小さい頃からありました。
本格的に山燕庵を手伝い始める2011年は、勤めていた会社と合わず、体調を崩していた時期で。そんな頃に東日本大震災が起きて、福島県の農家の目線で世の中を見た時に、矛盾を感じたんです。
矛盾、ですか?
例えば、原発事故の影響が騒がれていた当時、福島の名前がついたお米はなかなか買われなくなりました。消費者の方の気持ちを考えれば、仕方がないとも思います。ですが、福島のお米だけに検査が義務付けられ、それ以外は検査を義務付けられていないお米が流通している状況がありました。安心・安全の境界線が「県境」というのは、僕は不思議に感じます。
確かにそうですね。
無数にある食べ物の中から、本当に安心で安全なものを選び取るのはとても難しいことだと思います。
ではどうしたらいいのかと言うと、自分でつくることが究極の選択だと思うんです。そして作る側も、自分で作ったものをどれだけ安全か理解した上で買ってもらう。そうしてお金が行き来する商売はすごく健全だし、これからの時代は絶対に求められるはず、と感じたんですね。
そこで、お父さんのお米作りが頭に浮かんだと。
そうですね。安心・安全なお米を届けることで、消費者には健康になって喜んでもらえる。生産者としても、オーガニックの価値観が広がれば嬉しい。とてもシンプルな構造だけど、なんていい仕事なんだと。
それと、農業のほうが前職よりも性に合ってるなって思ったんです。震災直後でお米が売れなかった時期なので、父にはあまり歓迎されませんでしたけどね(笑)。
都会の消費者を田舎に呼ぶには
山燕庵では、「都会の消費者と地方の生産地を結ぶ」ことをコンセプトに掲げていますよね。具体的な取り組みとしては何かされているんですか?
父は年に2回、福島の畑で東京の仲間と村の人を集めてパーティーを開いています。一度でもいいからみんなに来てもらう。そして遊んで、農業に触れてもらう場所を守り続けることが大事なんだと。あそこに行けば、テントを張って泊まれるらしいよって都会の人に認知してもらうだけでもいいんです。
都会だと、なかなかテントが張れるところってないですよね。
家がすぐ隣にあるので、電気・ガス・水道もあるし、Wi-Fiだってあります。都会の人はWi-Fiがないとなかなか来てくれないですからね(笑)。
パーティーではどんなことをするんですか?
広間にステージを作ってフラガールの子達と一緒にライブをしたり、村の人がやっているバンドを呼んで、フォークソングを歌ってもらったりしました。ライブの音響機材は、父の古い知り合いが東京から一式を持ってきてくれたんです。
もはやフェスですね!
震災を機に、めっきり回数は減ってしまいましたけどね。昔から父は、そうやって周りの人たちを巻き込むのがうまかったんです。
消費者がどうやって手に取り、口に入れるかを考えたデザイン
山燕庵の商品はデザインやネーミングがとても秀逸ですが、これも周りを巻き込んだ結果、生まれたものだと聞きました。
そうなんです。父が出版社で働いていた頃からつながりのあるデザイナーさんやコピーライターさんにお願いしました。
お米の「コシヒカリアモーレ」と甘酒の「玄米がユメヲミタ」という名前は、「無印良品」の名前を考えたコピーライターの日暮真三さんが考えてくれています。お米と甘酒のパッケージは「ハッチポッチステーション」のキャラクターデザインを手がけた藤枝リュウジさん、「ぬくぬくのぬか」のネーミングとデザインは「News23」のロゴをデザインした松下計さんによるものですね。
他の農家さんだと、なかなか仕事を依頼するのも難しい方々ですよね。
日暮さんや藤枝さんは父の出版社時代からの繋がりで、今でも連絡をとると面白がって力を貸してくださるんです。
松下さんの場合は偶然でした。うちの甘酒を使ってくれているカフェで、ぬかのカイロを作るワークショップを開いたんです。それを機に、ぬかのカイロを商品化したいと話していたら、たまたまカフェのオーナーの旦那さんが松下さんで。
それもまた出会いの力ですね。山燕庵の商品を見ると、農業の分野にも、もっとデザインが入るべきだと感じます。
どうやって人が手に取り、口に入れるのかを想像してモノをつくることを、常に生産者側が理解していないといけないと思います。
何かを売る過程で、最終的にお客さんが商品を見るのはお店ですよね。だから、お店の人がどんな風に売ってくれるかはとても肝心です。そこで、お客さんへのプレゼン方法をお店の人たちにちゃんと理解してもらうためにも、いいデザインが必須条件だと考えています。
確かに、お店の人がきちんと説明しておすすめしてくれるものって買いたくなります。
僕が販売店への営業も担当してるんですが、うちの商品を扱ってくれるお店には、直接行って話をするようにしています。一人で全国各地を回らなくちゃいけないので大変なんですけどね(笑)。
「ちょっといいもの」を求める人は確実にいる
商品を置いてもらうお店は、どのように探しているんですか?
展示会に出たり、お店の問い合わせフォームに直接連絡したりですね。問い合わせから実際に担当者の方に会うまでに、半年かかったところもありました。
うちの商品は自信を持っていいものだと言えるし、デザインも力を入れているので、実際に会いさえすれば、納得してお店に置いてくださるようになりますね。
山燕庵の商品を買うのは、どんな方が多いんでしょう?
「ちょっといいもの」にお金を出す方々に買っていただいています。
家族経営で生産量も多くありませんし、うちの商品は決して安いとは言えません。そのため、もともとニッチで高級路線の商品をつくらないと生き残っていけないと思っていました。幸い、ギフトとして購入いただく場合が多いため、うまく活路が見出せましたね。
そんな風に「ちょっといいもの」にお金を出す消費者は増えていると思いますか?
増えているかはなんとも言えませんが、確かにいるんだなと感じています。例えば、郊外型の大型商業施設を展開している企業様でのギフトとして採用頂いています。
大型商業施設のある郊外は、都心で働く人たちが家を構えていることが多いですよね。彼らは情報感度が高くて、子育て世代が多い。だから体にいいもの、ちゃんとつくられたものにはお金を払うし、人にもちょっといいものを贈ろうという意識があるのかなと。あくまで僕なりの仮説ですが。
深呼吸から生まれる自然のサイクルを増やしたい
晋一さんは新規店舗の開拓を担当されているということですが、営業の経験はあったんですか?
前職はマーケティングリサーチだったので、営業は未経験です。僕が営業を始めるまでの山燕庵は産地直送の個人販売のみだったので、店舗での取り扱いはなくて。しかも、その個人のお客さんも、震災で一気にいなくなってしまったんです。震災後に店舗の開拓を積極的に行ったのも、いわば必要にかられてでした。
営業も農業も未経験だと、初めてのことばかりで大変なことも多そうです。
最初は流通やサービス業について全くわからない状態で営業をしていたので、取引先の方々から多くのことを学びました。
創業当初から、国の定める6次産業化の事業者としての活動を前提にしています。うちは6次産業(1次産業=生産 × 2次産業=加工 × 3次産業=販売)にあたるので、1次〜3次のすべてに関わっているんです。なので、学ぶことも多かったのですが、自分の仕事をきちんと理解すると、各業界の人と対等に会話ができるようになりました。
それに、山燕庵では草刈りから出荷作業まで手作業でやるので、お米ができ、食卓に届くまでの行程をすべて体験できます。そのため、販売する商品価格の内訳も理解できるようになりました。
山燕庵に関わり始めて、いろんな気づきがあったんですね。
一番は、土の大切さを再確認したことでしょうね。土がないと、人間は何にもできません。それに日々、土に触れていると、ふと外の景色を見たときに足りないものや、なくなったものがわかるようになるんです。
例えば最近、都会でスズメを見かけないと思いませんか? 実は、雀の数は1960年代に比べ10分の1ほどに激減してると環境省が発表しており、このままだと絶滅する勢いとすら言われています。
ふだん意識したことはありませんでしたが、言われてみればそうかもしれません。
減少した原因は諸説ありますが、そもそも昔はどこでも見ていたはずの鳥がいなくなっていることに、都会で生活している人たちが気づかない事のほうが問題だと思います。
そんな風に、気づかないところで自然環境は変化しています。いい大人なんだし、未来のことを考えないといけないと自分でも思うんです。だから、土のこと、自然のことを都会の人に伝えていくのは大事だなと。
ご自身が都会と田舎の両方に触れて気付かされたことがあるからこそ、山燕庵のコンセプトがあるのですね。
農薬や化学肥料を使わない土を使い、地方でつくったお米や野菜を都会の人たちに届けることはとても大切なんです。それが売れれば農家が潤って、農薬や化学肥料を使わない畑が増やせる。その畑が増えると、自然の循環がよくなる。
例えばいなくなっていた動物が戻ってきたり、山に人が入って森の環境がよくなれば、川の水も綺麗になる。川が綺麗になれば、海が綺麗になって美味しい魚がとれる。そうやって自然全体でいい循環が生まれると、結果的に美味しいものが採れるようになる。
山燕庵では、こうしたいい循環を増やすお米作りのことを「深呼吸農法」と呼んでいるんですよ。
深呼吸農法、ですか。
たまに深呼吸して、自然を感じて、太陽や土の恵に感謝しようよってことです。何言ってるんだって感じる人もいるかもしれませんが、農薬や肥料の話をする以前に、とても大事なことだと思うんですよ。
確かに、都会に住む人たちでもわかりやすい言葉ですよね。
「コシヒカリアモーレ」「玄米がユメヲミタ」のように、わかりやすくて気になる商品名も同じですね。そんな風に、ネーミングまで含めた伝え方、つまり「デザイン」がすごく大事だと思っています。見た目が9割、背景が1割。そこで商品を手に取ってもらえば、理解してくれる人にはきちんと伝わる。
そうして山燕庵のことを知ってもらって、いつか生産地まで足を運んでもらえるきっかけになれたらいいなと思っています。
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